【小説】東京テルマエ学園 第2章 19話「優奈の始球式」 前編

「今度のエンジェルス戦、優奈も見に行く?」

「何、やぶからぼうに」

寮の共有スペースでホットヨガをしていた優奈は突然の萌の申し出に眉を寄せた。

萌は両手を頭の後ろで組んで答える。

「毎回思ってたんだけどさ。寮から同時に出て、行先同じなのに別々に行動するのって何か変じゃん。たまには一緒に行かない?」

萌の兄はプロ野球選手。東京エンジェルス所属のピッチャー、平泉翔平だ。

萌は兄の応援で試合のたびに球場へ足を運んでいるのだが、そこで毎回優奈を見かける。

優奈は翔平のファンを自称してはばからない。

そしてあわよくば付き合いたいと考えているのか、萌に翔平を紹介しろと事あるごとに迫ってきていた。萌としては何とも複雑なので毎回適当にあしらい誤魔化してきたが、この間のオリンピック選考会の件からどうやら当の翔平が優奈のことを意識し始めているようなのだ。

萌も優奈には密かに感謝していた。

神奈川での大会時、怪我をした萌を心配して翔平は今にも飛び出していきそうだったというし、それを止めてくれたのは優奈だ。優奈がいなければ騒ぎは大きくなっていただろうし、エンジェルスにも迷惑が掛かっていたと思う。

そんな萌の思いも知らず、優奈は怪訝そうにする。

「アンタ、頭でも打ったの? この間のスケボ大会で」

散々翔平との仲介を断っていたくせに、と優奈が非難めいた視線を向けると萌はどこ吹く風で笑い、優奈に向けてウィンクしてみせた。

「おかげ様で頭は何ともないよーん。試合の後兄貴と会う約束してるんだけど、優奈もどうかなって思っただけ。兄貴とはお店でたまーに会うだけなんでしょ? あたし含めて仲良くしておいた方が得だと思うけどねー」

優奈は言葉に詰まった。

翔平はキャバクラ研修の後も2か月に一度くらいのペースで優奈の店に顔を出してくれていた。その際翔平の口から出る話題と言えば野球のことと、妹の萌のこと。翔平が重度のシスコンであることは優奈も薄々気づいていた。

将を射んとする者はまず馬を射よ――萌と仲良くなれば翔平を落せるのも時間の問題だろう。多分。

その瞬間に優奈の中の天秤が萌と一緒に行動する方に傾いた。

「……仕方ないわね」

「あ、どうしてもってわけじゃないからね。都合悪いなら別に無理強いしな――」

「行くわ、一緒に! そんでちゃんと翔平に会わせなさいよ!」

「もー食い気味~」

「大体、アンタ無計画で動きすぎなのよ。野球観に行くのにあっちこっちふらふらして大量の買い物袋抱えて食い歩いて。いつも球場に着くまでに何か所立ち寄ってるわけ?」

「何だ、ちゃっかり人の行動見てんじゃん。てかさー、ふらーっと出かけるのに計画とか必要? ただ野球観に行くだけじゃつまんないし――」

「何言ってんの。プロ野球なんてこれ以上ない娯楽でしょ!?」

萌は理解不能だと言わんばかりに首を傾げた後、ポンっと手を打った。

「そっかー。優奈ってホントに野球好きなんだね。てっきり兄貴目当ての不純な動機で通ってるんだとばかり思ってたー。ごめんごめん」

「違う! けど違わない!」

萌はぷっと吹き出した。

「え、結局どっち?」

優奈が萌を睨みつけたその時、アキ達が寮に戻ってきた。アキは萌を見つけるなりあっと大声を上げる。

「萌ちゃんいたー! もしかして今日練習だって忘れてた?」

「え、あれ? 今日ダンスレッスンの日だっけ?」

「おう、汐音から聞いてねェか? オリンピック選考会組も今日は練習に出られるってんで、珍しく皆揃って練習できる日だったんだがなァ。――まさかたァ思うが、汐音、お前さん言い忘れてたってオチかい?」

「えー、ちゃんと伝えたし。あたしだって松永くんにネチネチ言われるのやだしー」

汐音は不服そうに唇を尖らせた。

萌は申し訳なさそうに頬を掻いて苦笑した。

「そういえばそんな話したかも……ごめんすっかり忘れてた!」

「もー、しっかりしてよねー。折角この汐音ちゃんが手取り足取り教えてあげようと思ってたのにー。この後バイトだからそれも無理っぽい」

アキ達は顔をひきつらせた。

汐音のマンツーマンは地獄だ。

その指導に耐えられたのはほんの一握りのメンバーのみで、後は皆脱落してしまった。

地獄のレッスンを回避できた萌はラッキーである。

汐音の次にダンスが上手い七瀬が手を上げる。

「後でわたしが教えてあげる」

「ありがと助かる! 遅れて加入した分頑張んないといけないしね!」

「そう言ってもらえると心強いよ!」

アキは嬉しそうに笑った。仲間は一人でも多い方がいい。アキ一人では無理でも、皆で頑張れば温泉地復興も夢ではないと思えてくる。

「萌は運動神経いいし、すぐ皆に追い付けるって。今度のライブは萌も参加するんでしょ?」

「そのつもり!」

「じゃあ八郎達に宣伝してもらわないとね。新メンバー加入しましたーって――やば、もうこんな時間!」

スマホをチェックし、汐音は慌ててシャワーを浴びに出て行った。

優奈と残された六人の間に奇妙な沈黙が広がった。

優奈はムーランルージュのメンバーではない。皆でライブの相談を始めると迷惑そうな顔で部屋にこもってしまうし、仕事前に休んでいる時にはうるさいと何度も怒られた。

この間のライブでも、SNS上で反響が大きかったことを皆で歓びはしゃいでいたら、寮でその話はやめろときつく言い渡されたばかりだった。

こういう時汐音が居れば、空気も読まずに発言するので優奈と言い合いになってすっきり終わるのだが、頼みの汐音はバイトに行ってしまった。

気まずい空気の中でアキが思いついたように言う。

「そうだ、優奈ちゃんも今度ライブに来ない?」

「それどういうつもりで言ってるわけ? わたしもメンバーに入って欲しいってこと?」

部屋の空気がピリっとした。

争いごとが苦手な涼香は身を竦ませ、圭は静観するように腕を組む。ここまで一致団結してやってきただけに、優奈が加入すれば不和の元になるのではないかと二人共危惧していた。

残った一年生は二人だけ。優奈に威圧されれば流石の千秋もびびってしまうのではないかと七瀬も心配になる。

刹那の緊迫感が漂った中で、アキは呑気に頷いた。

「入ってくれたら嬉しいなーとは思うよ」

優奈は気が抜けたようで、片手で額を押さえた。

「悪いけどわたしそういうの全然興味ないから。やるならアンタ達だけで勝手にやってなさいよ」

「そうなの? アイドルになって翔平さんと付き合いたいって言ってたから、どうかなって。ほら伊豆の研修の時に。歌も上手なんだよね。一緒にやってくれたら本当に心強いなって思って」

「……それはそれ、これはこれでしょ。大体、普通あんなの本気にする? わたしがアンタ達みたいなきゃぴきゃぴのアイドルになれると思うわけ?」

「うん。凄く頼りになると思う」

「そうさな。なれンじゃねェか?」

穂波が面白そうに口を挟む。

「クラブじゃァ客にあわせて猫被ってンじゃねェか。あれだけできりゃ、アイドルだってできるだろうさ」

そうだね、とアキ達が同意して頷くと優奈は苛立たしげに舌打ちした。

「勝手なこと言ってんじゃないわよ。ネットで行動晒されて、本当か嘘か分からないコメントされて浮かれるアンタ達とは違うの。大体、お遊戯会に毛が生えたレベルの歌と踊りでアイドル名乗るなんて恥ずかしくて無理でしょ。とにかく誰に何と言われようが、アイドルなんてなるつもりないから」

そう言い捨てて優奈は部屋に戻り、乱暴にドアを閉めた。

「なーに意地張ってんだか」

穂波は溜息をつき、残されたアキ達は互いに顔を見合わせ、七瀬は心配そうに呟いた。

「何か日に日にひどくなってない? 優奈さん、アイドルアレルギーだったっけ?」

「まあ、何だ。そう気にするこたァねェさ。あれであいつ、隠れてムーランルージュのSNSをチェックしちゃあ、悪質なコメントにケチつけてっから。本人は全力で否定してるけどな」

「気にかけてくれてるんだね」

「そりゃあこんだけ連日話してりゃ嫌でも耳に入るってもンでェ、気になってもおかしくねェわな。一人だけハブられるのもつまんねぇだろうし。本当は嬢ちゃん達に協力してやりてェと思ってンのさ」

素直じゃないんだから、と穂波は肩を竦めた。

来たる東京エンジェルス対千葉マーリンズの試合当日、萌と優奈は一緒に寮を出て、あちこち寄ろうとする萌を優奈が引きずる形で試合会場に到着した。おかげで試合が始まる前に優奈はすっかり疲れてしまい、スタンドに座る頃にはぐったりとしていた。

「アンタ、色々寄りすぎ」

「そう? これでもいつもの半分以下だけど」

萌はケロっと答えた。

そうこうしているうちに試合が始まり、二人はエンジェルスのユニフォームTシャツを着て同じキャップを被り、チームカラーである赤いメガホンを片手に応援する。完全にペアルックである。

エンジェルスは先攻、翔平は四番打者なので、一番が出塁できればこの回の出番があるはずだ。

私設応援団がトランペットや打楽器で場を盛り上げ、それぞれの打者の応援歌が演奏される。そして一回表でいきなりのチャンス到来、二番打者のツーベースヒットでランナーが得点圏に進んでいた。

チャンステーマが流れ、翔平の出番が来た。

「いけー! 兄貴かっとばせー!」

「かっとばせー翔平!」

バッターボックスで構える翔平の姿がバックスクリーンに映し出された。かっこいい、それだけで今日のご飯三杯はいける……! 優奈は翔平の尊さを噛みしめた。

強気なピッチャーの渾身のストレートを、バットの芯がしっかりとらえる。小気味良い音が響く。ボールは綺麗な放物線を描き、悠々と客席に吸い込まれていった。

――ホームランである。

翔平はガッツポーズを決め、満面の笑みで走る。そしてホームを踏みしめベンチに戻ってチームメンバーとハイタッチ。無邪気な少年のような表情に優奈は胸が苦しくなった。あの笑顔最高、本当に好き結婚したいと一人噛みしめる。

三点を取ったところで攻守交替となり、今度はマウンドに上がる。ああ、推しがかっこいい。優奈は口元を押さえた。

「投げて打って走れるなんて、翔平最高じゃない? はーかっこいい。結婚したい」

「な、泣いてる?」

エンジェルスはその後も打線が繋がり順調に得点を重ね、途中で翔平は降板し、抑えの田中と交代し無事に勝ち星をあげた。

「兄貴、最後まで投げ切らなかったね」

ずこーっとジュースを啜る萌に優奈は呆れて答えた。

「オリンピック控えてんのよ。一試合無理して投げ切るわけないでしょ。オールジャパンのエースが故障したらどうすんのよ。悔しいだろうけど、今は仕方ないわ。翔平の実力ならいつだってノーヒットノーラン達成できるし、九回まで投げ切れるし」

「そっかー、やっぱり優奈詳しいね」

「別に、これくらい野球ファンなら普通分かるでしょ」

「ふーん……」

萌はじっと優奈を見つめた。

「何よ」

「いつも翔平が翔平がーって言うけど、やっぱり野球ファンなんだなって」

「……は? 当たり前でしょ。わたしはずーっと翔平ファンだけど?」

「そうじゃなくて――」

言いかけたところで翔平との待ち合わせ場所に到着した。球場からは離れた場所にある隠れ家的なカフェだ。

店のドアを押し開けるとカウベルが鳴る。木造の店内は優しい電球色のライトで照らされ、落ち着いたいい雰囲気だった。香ばしいチーズの香り、鉄板に肉汁が滴るジューシーな音、食欲を誘うスパイスの香り、食後のコーヒーの匂い……美味しい音と匂いで涎が出そうだった。

ウェイターに案内された席には、キャップを目深に被った男が座っている。萌と優奈に気が付くとキャップを少し上げて嬉しそうに笑った。

「二人共遅かったな」

萌は翔平の隣に座り、優奈はその向かいに座った。

「折角の兄妹水入らずのところにお邪魔しちゃってすみません」

「えや、気にしないで」

「何どご格好づげでらんだが。にっちゃがうるせぇがら連れでぎだのに」

頬杖をついて文句を言う萌の口を翔平が抑える。

「余計なごど言わねでえ」

めっ、と翔平が妹の言い聞かせるのを見て優奈はつい笑ってしまった。

「本当に仲がいいんですね。うらやましいなぁ」

翔平と萌はたびたび訪れているらしく、おすすめはチーズたっぷりアボカドエビグラタンだと二人で口を揃えて言う。

料理を待つ間、三人は今日の試合の感想を言い合った。

「初回ホームランはよかったけど、裏で翔平の球がすっぽ抜けた時はひやひやしちゃった。チェンジアップからのストレート、スライダーのえぐさは今日も最高だったけど」

「あの抜け球、自分でもないなと思った。あの時は本当に焦った……」

「もー、しっかりしてよね兄貴。勝てたからよかったけど、あの場面で大量失点したらどうなってたことか」

「せば皆に袋叩きにされてたかも」

料理が運ばれてくる。

しばらく野球の話で盛り上がった後、話題の矛先は萌のムーランルージュ加入に変わった。

「本当にアイドルなんてできるのか?」

「余裕っしょ」

萌は呑気にタピオカを啜った。太いストローで吸い上げられたタピオカは蛙の卵のようだった。

翔平は心配そうに返す。

「そうは言っても、大丈夫か。ほら、ストーカーとか。SNSで余計な情報流されたらどうすんだ」

「そんなこと言ったら兄貴こそヤバいんじゃないの? ストーカーの一人二人はいるでしょ。もしかしたらこの店の中にもいるかも」

優奈はぎくりとした。こんなところで飛び火したのではたまらない。

翔平は呆れたように返す。

「いるわけねぁべ」

「どーだかねー」

意味深に優奈を見る萌に翔平は首を傾げた。

「優奈ちゃんから見てこいつどう? ちゃんと人前で歌ったり踊ったりできると思うか?」

「それは大丈夫じゃないかな。度胸あるし、本番に強いっていうか。サンバの時もあんまり動じてなかったし」

「そーそ。全っ然問題なーし」

「じゃあ今度見に行くわ。お前がどれほどのもんかチェックしとかないと。優奈ちゃんは俺に忖度してるっぽいから」

「マジでやめて! 恥ずかしいから来なくていいし、優奈は他人に忖度なんかしないから!」

「そんなに嫌がらなくてもいいだろ。ライブがいい感じならチームでも宣伝しといてやるよ」

「あ、それはありがたいかも」

ギャーギャー騒いでいた萌は、ころっと態度を変えた。

「優奈ちゃんもライブに出るの?」

「まさか。出ないよ。私はそういうの、柄じゃないから」

「なんだ、残念。優奈ちゃんがアイドルなら、俺、絶対推すのに」

優奈は苦笑した。

「お世辞がうまいんだから。もう酔ったの?」

「お世辞でねぁ。あーもったいねぁ! かわいいし綺麗だし――」

「ありがとね、翔平。でも……わたしね、煌びやかな表舞台に立つ資格ないの。一度夢を捨てたから」

優奈は手持無沙汰にグラスを撫でた。

「……その夢って、野球のことでしょ」

萌が静かに指摘した。

「優奈、本当は野球に未練があるんじゃないの?」

「何馬鹿なこと言ってんのー?」

優奈は笑う。

「野球なんて辛いしきついし、何が楽しいんだか」

――嘘。

野球をやっていた頃は楽しかった。

練習は辛いけどチーム一丸で勝ちを掴むのは嬉しいし、孤独なマウンドも仲間の励ましと声援があれば苦しくない。

「……見てるだけで十分よ」

リズムよく処理されるゴロ、キャッチャーミットに吸い込まれるボールの音、剛速球に空を切るバット、きっちり三球で打ち取られる打者――プレイしないと分からない楽しさ。

いずれは女子プロ野球選手に――そんなことを夢見ていた。

だがそれも過去の話。

優奈は野球を棄てた。

それ以来、日陰に生きている。多分これからも。一生涯。

「今もこれからもキャバ嬢一筋。稼いだお金は翔平に貢いであげる」

萌と翔平は互いに顔を見合わせた。

「そうか……どうすっかな」

翔平は唸った。

「実は今日優奈ちゃんに来てもらったのは、お願いがあるからなんだよね」

「えー何? 翔平のお願いなら何でも聞いちゃう!」

甘えた声を出す優奈に萌は苦笑した。何と言う変わり身の早さだろうか。

「せば、オリンピックの始球式で投げてみない?」

翔平のお願いに優奈は言葉を失った。

続く