【小説】東京テルマエ学園 第2章 18話「オリンピック代表選考会」 前編

「今までありがとうございましたぁ~」

頭を下げることなく最低限の挨拶をすませた後輩は、腕を組んで様子を見ていた汐音を睨みつけて去っていった。はああ、とアキは大きなため息をついてテーブルへ突っ伏す。

「また辞めちゃった……」

「まあ、最初から本気でアイドルやろうってつもりで入部したわけじゃなかったみたいだしね」

落ち込むアキの肩をぽんぽんと叩いた七瀬も小さくため息をつく。

ムーランルージュが始動して二ヶ月、新メンバーである後輩は次々と退部していた。そもそも新入生がアイドル部へ興味を持ったのは、中高生に人気のインディーズバンド、ドラゴン坊主のボーカルである竜馬がムーランルージュに曲を提供したのがきっかけだ。新メンバーは竜馬とお近づきになれるかもしれない、と入部した子がほとんどで、汐音の厳しいレッスンに耐えられず早々に離脱した。

残ったのは人前で歌って踊ることが好きな子だったが、それでも汐音のレッスンに耐えられない。メンバーが揃わない日が続き、汐音の指導が厳しくなっていったからだ。それに加え、新メンバーの中でも一際癖のある岡本千秋に振り回され、嫌気が差して辞めてしまうのだ。

「後輩、あと二人しか残ってないの? ヤバくない?」

睨まれたことなんて何のその、スポーツドリンクを飲みながら汐音が呑気に言う。それを聞いて穂波と七瀬が肩をすくめた。

「お前さんが言うのか」

「あんたのレッスンに付き合いきれないってさ」

「付き合えないって言われてもさー、あたしのレッスンなんてまだ優しい方だよ。芸能事務所とかがやってるアイドル養成所だとあたしよりもっともっと厳しいし。ま、できないならそれまでだね」

あっさりと切り捨てた汐音と違って、みんなで頑張ろうと最後まで後輩を説得していたアキは脱退したメンバーを思ってしょんぼりと落ち込んだままだ。

「わたしがもっとチームを盛り上げてたら残ってくれたのかなぁ……」

「どうだろうね。あんたが頑張ってても、さっきの子達の辞める理由は変わらないんじゃない?」

ちらりと七瀬が暇そうにネイルを弄っている岡本千秋へ視線をやり、肩をすくめる。

初めて会ったときから彼女はトラブルメーカーになるんじゃないかと思っていたのだ、性格に癖がありすぎる。女子の嫌いなタイプの女の子だ。

人気雑誌のモデルをしているだけあって顔は可愛いしプロポーションも抜群。アイドル部として文句なしの逸材だ。けれど口を開けば甘ったるいような猫撫で声。先輩であるアキ達へは甘えるように見せて自身の我侭を押し付け、都合が悪くなったら他のメンバーのせいにして逃げてしまう。

同じ1年生相手にはアキ達の愚痴を吐き、レッスンについても文句ばかり。その癖、マネージャーである渡の姿を見れば一音高い声で甘えにいく。同じ1年生の反感を買うのは当然だった。

同じ場所にいることすらも嫌だと、彼女を嫌って辞めてしまった1年生は一人二人の話ではない。気が強い北見早苗とも何度も口論になり、結果北見早苗は辞めてしまった。けれど岡本千秋本人はやる気が無さそうに見えて辞める気配はないから、厄介だった。

七瀬の視線に気づいた岡本千秋はにっこりと甘えるように笑う。

「七瀬お姉さま、何かありましたぁ~?」

「……何もないわよ」

「そうですかぁ? 今日はもうレッスン終わりなんですよね~? もう帰っていいですかぁ、これから撮影なんですぅ~」

「あ、うん。いいよ! 撮影がんばってね!」

さっさとレッスンルームから出て行った岡本千秋をため息で見送って、七瀬はもどかしく前髪をかきあげた。2年生だけが残ったレッスンルームに重い空気が流れる。

「練習するにすても、各自のパート練習すかでぎねね……」

「ライブすら決まっちょらんもんねぇ」

いつもならあれこれと指示を出してくるはずの渡はいない。なんと渡は、ボクシングの60キロ級で東京オリンピックに出場するのだ。

初めて聞いたときは驚いた。アメリカにいた頃からボクシングをやっていて、日本に戻ってきてからもボクシングスクールに通っているとは聞いていたものの、まさかオリンピックに出場するほど強いなんて!

それから、1年生のまとめ役を任せていた川島由香もレッスンを休んでいる。なんと、川島由香も新体操でオリンピックへ出場するのだそうだ。暫くレッスンをお休みします、と申し訳無さそうに頭を下げてきたその日の夜、何となしにテレビをつけたら、美人アスリートとして川島由香がテレビにうつっていてアキは文字通り飛び上がるほど驚いた。

それに、霧島麗華も陸上競技でオリンピック出場を決めている。彼女はアイドル部と陸上を両立しようと頑張っていたけれど、汐音のレッスンが考えていたよりも厳しく、体力の面で支障が出ると判断したため、残念だけれどアイドル部を退部していた。

「オリンピックに出場するとかすごいよねぇ」

「温泉専門学校なのにオリンピックに出場する生徒がいるってこと自体が驚きっていうか不思議だけどねー」

「それを言うなら、温泉専門学校なのにアイドルやらせようとする時点でおかしいよなァ」

「ほんとそれ」

渡からの指示が書かれたプリントをテーブルへ投げた汐音はつまらなそうに椅子へ寄りかかった。随分と少なくなってしまったチームでレッスンを進めるのは難しい。暫くはライブもできないし、渡がいないとダンスをどう編成するのかも相談できない。体が鈍らないように各自パートを練習するしか出来ることがないのだ。

「はあ……AKP48みたいなアイドルチームになれると思ってたのになぁ……」

「懐メロ路線だから、初期のおはよう娘とか、おにゃんにゃんクラブの少人数バージョンみたいな感じでいくのかしらね?」

「私は中森あきこみたいなカッコいい系の方が好きなんだがな」

「あー、似合いそう!」

きゃいきゃいとこれからのチームのイメージを想像するアキ達へ、ふいに圭が手を上げた。

「あの、もう練習は終わりなんじゃね? 今日はもう帰ってよかね……?」

「どうせ自分のパートの自主練習だし、別にいいけど」

「どうしたの圭ちゃん、用事?」

「う、うん、そげんとこじゃ! すまんのう、今日ん埋め合わせはまたするき!」

ほんのり頬を色づかせた圭は、そわそわと浮き足立った様子で荷物をまとめ、足早にレッスンルームを出て行った。

「珍すいね圭ちゃん早ぐ帰るって」

「そうだね~」

ぽやぽやと会話するアキと涼香の正面で、汐音がぱちんと指を鳴らす。

「あれは男と見た!」

「男だろうなァ」

「男でしょうね」

圭の様子から察した穂波と七瀬は頷いていたが、アキと涼香は驚いて汐音を見る。

「そうなの!? え、圭ちゃん彼氏いたんだ!?」

「わ、わだす、同室だけんど、んな話聞いたことねぇべ……」

「圭はほら、自分から彼氏いるんだよ~って言うタイプじゃないし、言う機会がなかっただけじゃない?」

「だろうなァ。あの初々しい感じじゃアまだ付き合ってそんな経ってねェんじゃねえか?」

「すげーメスっぽい顔してたもんね。圭って鹿児島出身だったっけ? 遠距離恋愛だろうし、久々の再会なのかもね~」

帰ってきたら馴れ初め聞いてみよう、とわくわくした様子で汐音が帰り支度をする。明け透けな言い方に七瀬が頬を引き攣らせた。

汐音につられて片づけを始めたアキがふと手を止めた。

「そういえば萌ちゃんの試合、もうすぐだね!」

アイドル部に入部していない萌は幼い頃からスケートボードをやっている。前回のオリンピックでは惜しくも出場を逃したので、今年こそはと張り切っているのだ。その萌も渡たちと同じく学校を休んで、オリンピックをかけた最後の大会に臨むため、合宿をして最終調整を行っている。

最後の大会は、アキ達も応援しに行こうと話していたのだ。

「オリンピック出場、でぎだっきゃいね」

「みんなでいっぱい応援しよう!」

大洗圭は心が浮ついて落ち着かないのを自覚していた。それもそのはず、これから初めての彼氏と初めてのデートをするからだ。

上野駅のお手洗いで自身の姿を鏡で確認する。

滅多に着ない女の子らしいワンピースは、先日涼香に選んでもらった元気なオレンジ色。普段はパンツスタイルばかりなので、ふわふわ揺れ動くスカートが落ち着かなくてレギンスも重ねてしまった。薄手のデニムのジャケットを羽織り、靴は歩きやすいスニーカーパンプス。

「少しでも、女の子らしゅう見ゆっかな……」

足早に上野公園へと向かいながら、思い出すのは2つの笑顔。

圭には好きな人が2人いた。小さい頃から一緒の幼馴染だ。

3人はいつも一緒だった。中学の頃思春期に入り、男子と女子が一緒にいるとクラスメイトにからかわれるようになっても3人は離れることはなかった。

仲良し3人組の関係が変わったのは高校に入ってからだった。他校の男子生徒といざこざがあり、周囲に迷惑をかけてしまって落ち込む圭へ、幼馴染の一人が想いを告げてきたのだ。

小さな頃から一緒だった幼馴染をそういう目で見たことがなかった圭は驚いて、初めて幼馴染2人を男として意識するようになった。

高校の三年間を幼馴染と向き合い、自分の気持ちと向き合って、圭が恋人としてそばにいたいと思うようになったのはもう一人の幼馴染の方だった。

高校の卒業式の日に想いを告げ、受け入れられ。それからすぐに圭は進学が決まっていた東京へと離れてしまったので、恋人として顔を合わせるのも、出掛けるのもこれが初めてだった。

女の子はいつだって、好きな人には可愛いと思われたい。小さい頃からワンパクで、女の子らしいことはほとんどしていなかった圭もそう思っていた。恋人になった幼馴染は可愛い系の女の子がタイプだから尚更だ。

ほんの少しの不安を抱えつつも待ち合わせ場所へ急ぐと、観光客などで込み合う人混みの中、頭一つ分大きな姿を見つけて圭はぱっと笑顔になった。

「西郷!」

声をかけると、スマホを見ていた幼馴染――西郷は圭を見つけて優しく笑った。

「圭、久しぶりやなあ」

短く刈り上げた髪に、ハの字眉の穏やかな顔立ち。服の上からでも鍛えているのがわかるほど大柄な体は、圭と並ぶと尚大きく見える。きょろりと周りを見渡した圭は小首を傾げた。

「あれ、大久保は? 一緒じゃなかと?」

「わいには会おごったどん、馬に蹴らるっ趣味はなかっちゅーとったじゃ」

「馬って……? ああ、そげん……気にせんでよかとに」

もう一人の幼馴染ーー大久保の気遣いに、圭はほんのりと頬を染めた。西郷も照れくさいのかうろうろと視線を泳がせ、ふと圭の服装に目が留まる。

「そいにしてん、東京に出たや東京らしい格好すっごつなったんやなあ。学生ん頃は動きやし格好しちょったんに」

「……だって、で、デートやろ…」

きょとんとしていた西郷は、自分のためにオシャレをしてきたのだと気付いて顔を真っ赤に染め上げた。大きな体をしている割に、恋愛ごとには不慣れなのだ。

「そ、そうか……」

「おん……」

ぼりぼりと頭をかいて忙しなく視線を泳がせる西郷。気を取り直して圭は西郷を促して歩き出す。

「試合、明後日やったっけ? 練習はよかと?」

「あんまりやりすぎてん良ぉなかでな。散歩もよか休憩になっじゃ」

西郷が上京したのは、柔道オリンピック出場をかけた最終選考会のためだ。中学の頃から柔道を始めた西郷はめきめきと実力を発揮し、高校のときには全国大会で3連覇を成し遂げていたほどだ。そして、今では史上最年少の重量級メダル候補である。

重量級のメダル候補とまでいわれるようになったのは、西郷が驕ることなくずっとずっと努力してきたからだ。そんな恋人が誇らしい。

「明後日ん試合、応援に行っね。きばりやんせ」

「おお、あいがとうな」

葉桜が連なる桜並木をのんびりと歩きながら、ぽつりぽつりと話をする。もう一人の幼馴染のこと、卒業してからのこと、圭の通う学校のこと、ひょんな事から入部することになったアイドル部のこと。

圭がアイドル部へ入ったことにとても驚いた西郷へ、圭も苦笑いを返す。圭だってアイドルなんてやろうとも思わなかった。人前で歌うなんて恥ずかしいし、可愛らしい衣装を着て、短いヒラヒラのスカートで踊るなんて想像もしていなかった。

けれど、友達が困っていたから。故郷の温泉街を復興するため、自分がアイドルになって少しでも集客しようと努力しているアキを助けてあげたいと思ったから、圭はアイドル部へ入部した。

圭の実家の温泉旅館は、ありがたいことにたくさんの人で賑わっている。圭も学園を卒業したら実家を継ぐ。 いつまでも実家が繁盛しているとは限らない。なんとか一人でも多く集客しようと奮闘しているアキを他人事のようには思えなかったのだ。

西郷はそうかと一言しか返さなかったが、その表情があまりにも優しくて。圭が決めたことを否定することなく受け入れてくれる西郷の懐の深さに嬉しくなった。顔を合わせて微笑み合う。

久しぶりの西郷との穏やかな時間に、圭の心はふわふわと温かく浮き立つ。

「誰かぁあ!」

ふいに弱々しい声が聞こえた。そちらへ目を向けると、年配の女性が地面に膝をついていた。事態に気づいて止めようとした人や通行人を押しのけて、黒っぽい格好をした大柄な男が駆けてくる。その手には、男には似つかわしい赤いバック。

「ひったくりよぉ!」

声を裏返しながら叫ぶおばあさん。瞬時に圭の足は地面を蹴っていた。

「鞄、返しやんせ!」

あえて自身を認識させるように大声を出しながら男へ向かうと、男は驚いたように一度足を止めたが、そのまま圭へ走ってくる。一瞬だけ男の足が止まったことに口元を引き上げ、体格差で突き飛ばされてしまうと判断した圭は既で男からひらりと避けた。

その先に待ち構えているのは西郷だ。圭が男の足を一度だけ止めたことで追いついた西郷は、ぐっと腰を落とし、突っ込んできた男を受け止める。タックルして相手を押しのけ、その隙に逃げようと画策していたらしい男は、体がぶつかり合ってもビクともしない西郷に驚いて目を見開いた。

その一瞬の隙に西郷は男の腕を強く引き、腹に腰を入れ、そのまま男をぶん投げた。男は受け身も取れず背中から地面へ叩きつけられる。

「ぐあッ!!」

悶絶する男を容赦なくうつ伏せにして、逃げられないようドスンと背中に座った西郷。遠巻きに見ていた人が警察へ連絡しているのを確認した。

地面に転がっていた鞄を拾い上げポンポンと汚れを落とすように叩いた圭は、通行人の女性に助け起こされたおばあさんへ返す。

「はい、おばあちゃん。気ぃつけやんせ」

振り返ると、西郷が人に囲まれていた。高校のときに起きた事件を思い出し、最終選考会へ出られなくなるかもしれないと圭の全身から血の気が引く。慌てて西郷のもとへ走り寄れば、圭を待っていたかのように一斉に拍手が響く。

「……え、なん?」

「わからん……」

おろおろする西郷と圭へ「兄ちゃんカッコよかったぞ!」「あの背負い投げすごかったな!」「何かの選手なんですか?」「お姉さんも素敵でした!」「お姉さんめっちゃ可愛い!」と賞賛の言葉が続々とかけられる。

「本当にありがとうございました。このバッグには、死んだおじいさんからもらった大事なハンカチが入っていたの。取り返してくれて本当にありがとう」

気がつけば、バッグを引っ手繰られたおばあさんが涙を浮かべながら西郷へ頭を下げていた。何かお礼を、と続けるおばあさんに西郷は首を振る。

「当然のこっをしたまでじゃ」

圭も同じ気持ちでうんうんと頷いてみせると、おばあさんは感激したように両手を合わせる。

「まあまあ、まるで西郷どんの生まれ変わりのようなお人だねえ」

そのまま警察が駆けつけるまで仏のように拝まれてしまって、圭と西郷は困り果ててしまった。

引っ手繰り犯を捕まえたのに偉ぶらず謙虚で微笑ましいカップルとしてその様子がいつの間にか撮影され、SNSで拡散、夕方のニュースにまでなってしまい、西郷は一躍全国的に名前が広がることになるなんて、二人には思いもよらないことだったのである。

つづく