【小説】東京テルマエ学園 第1章12話 「湯船を止めるな!渋温泉」後篇

早瀬渡の朝は早い。

いつもアラームが鳴る前に目が覚める。小さい頃から変わらない得意能力だ。

まだいびきをかいている八郎を起こさないように動きやすい服装に着替えて部屋を出た。午前6時、付き合いで泊まった七瀬の実家である春陽館を出た渡は入念にストレッチを行い、2キロのリストウエイトを左右の腕に装着する。

軽く足踏みをし、重さ調節が適切にできていると判断して、朝霧の中を走り出した。向かうは、自主制作映画の撮影をしていた河原だ。きんと冷えた空気は清々しく、闇から藍へ変わりゆく空が美しい。

「ここがあいつの育った村なんだな……」

思うのは、太陽のような笑顔をみせる少女のこと。

とある女子のことを目で追っていると渡が気づいたのはいつだったろう。

彼女と出会ったのは新宿駅だ。いつ来てもうじゃうじゃと人の多い駅構内、エスカレーターでさえ片側を空けていないとどやされる不可思議な、世界から見ると“遅れている”場所。数年ぶりに日本へ帰国したばかり、留学していたアメリカの方が交通の便は良かったなと考えていたところで突然突風が吹きぬけた。

思わず細めた視界に入ってきたのは、ひらりと宙に舞うスカートと縞模様のパンツ。色気の無い下着と裏腹にすらりと形のいい脚があらわになり、あわてて裾をおさえる少女に視線をうばわれた。

この件はいまだ彼女の幼馴染にからかわれるので渡自身の名誉のためにはっきりとさせておくが、ラッキースケベのために目が離せなかったのではない。恥らってほんのりと頬が染まりゆくその表情から視線がそらせなかったのだ。

渡は女に苦労したことはない。小学生の頃に留学したアメリカでも、帰国してあまり日が経っていないその日でもそうだった。秀麗な外見につられ、女からよく声をかけられていた。

いいな、と思う子を見ているだけで、相手から声をかけてくれる。ボクシングに専念したくて恋人はあまり作ってこなかったが、自分がキャーキャーと黄色い声をかけられるようなイケメンなのだと自覚はあった。テルマエ学園に入学してすぐ、渡のファンクラブができていたのも知っていた。

そんな渡に、パンツ女――温水アキは顔を赤らめるどころか、嫌そうに顔を歪め、突っかかってくる始末。渡にそんな態度をとった女は初めてだった。

渡が近寄れば警戒して唸る子犬のようで、話しかければきゃんきゃんと噛み付いてくる。今まで渡の周りにいた女とは違い、とてもからかい甲斐があった。

他の奴には笑顔だったのに、声をかけた途端むうっと唇をへの字に歪める様子はとても可愛らしい。本人には絶対に言ってやらないけれど。

ぽんぽんと飛び交う軽口の応酬がとても新鮮で楽しかった。少しドジなアキはいつも危なっかしくて、けれどそれをフォローしてくれる友人がそばにいたから、安心して渡は彼女を見ていられた。

ドジをして、フォローされて、それを後で蒸し返すようにからかってやると、恥ずかしそうに顔を赤らめながらもきゃんきゃんと言い返してくる。同じ教室の中、何度それを繰り返しただろう。

いつものとおり彼女を観察していて、ふと気づいたのだ。彼女へ向ける自分の気持ちに。

何かがあったわけじゃない。授業中ふいに顔を上げると視界の端にうつったアキ。真剣な表情で、聞き漏らすまいと真摯に講師の言葉に集中する彼女を見て、自然と「ああ、好きだな」と。すとんと言葉が胸に落ちて、その感情に納得した。だからアキから目が離せなくて、つい意地悪な態度をとってしまうのかと。

自分の気持ちに気づいたとして、渡はアキへの態度を変えようとしなかった。アキにこの想いを伝える気はさらさらない。

早瀬渡は愛人の子だ。

銀座のクラブのナンバーワンホステスだった母は、懇意にしていた客の子どもを産んだ。その客は妻子があったため籍は入れられないものの金銭的な援助は受けていたらしく、渡はきちんと保育園に通わせてもらうことができた。夜の仕事をしながらも愛情を持って渡を育ててくれた母は体が強い方ではなく、渡が小学校へ上がる前に体を壊して死んでしまったが。一人きりになった渡は父ではなく、父の友人であるアメリカ人のところへ預けられることになった。

育ての親は良い人だった。渡が悪いことをすればきちんと叱り、良いことをすれば抱きしめて褒めてくれた。実の父以上に父親として慕うようになるのはすぐだった。

アメリカンハイスクールでも日本人だからと差別されることもなく、多くの友人に恵まれた。その内の一人に誘われ、遊びで始めたボクシングのスクールコーチに素質を買われ、ボクシングを本格的に習うようになる。

そうしてアメリカで何不自由なく過ごしていた渡は突然実父から帰国するよう告げられる。説明を求め、一時帰国した渡を待っていたのは実父と、腹違いの兄の秀長だった。

秀長は終始渡を目の敵にしていた。父が自分の母ではなく違う女に情をやっていたことも、その女との間に子どもまで作っていたことも心底気に入らないらしい。秀長自身は父の元、後継ぎとして帝王学を学び、父の会社で順調に地位を上げ、リゾート開発業務まで任されているくせに。渡は実父が早瀬コンツェルンという日本でも大手の会社の社長を務めていることすら知らなかったのだ。

父は渡に、早瀬家へ養子に入れと言った。任せたい事業があるからと。

何を勝手なことを、と思ったのは渡だけではなかったようだ。初耳だったのか、秀長はものすごい剣幕で父に食って掛かっていた。なぜよそ者を我が家に引き入れるのかと。最悪事業は任せてもいいが、養子にまでしなくてもいいのではないかと。母の姓を気に入っていた渡もそう思った。

けれど結局は社長である父の意向を受け入れるしかなく、義兄は父ではなく渡を憎んだ。父から母への愛だけでなく、仕事まで奪っていくのかと。正直渡は振り回されているだけなのだから恨み言を受けるのは筋違いだ。けれど義兄も、事の顛末を知った義母も、父ではなく渡を恨んだ。

そういうごたごたもあって、渡は男女の愛憎にはこりごりしていた。だから自分は一人で生きて一人で死ぬ。漠然とそう決めていた。

河原へ辿り着き、ぐっと両手を空へ突き上げる。大きく息を吐いて、呼吸を整えた。白やみ始めた空を映し、川の水面がきらきらと輝く。その様を見つめ、またも思考を巡らせる。

一人で生きて、一人で死ぬ。だからアキのことを気に入っていても、想いを伝えるつもりはなかった。そう、思っていたのだが。

新歓コンパのときに酔っ払った七瀬が言っていた。リゾート開発の勧誘の男に姉が言い寄られていると。七瀬の実家は長野の渋温泉だ。幼馴染であるアキの実家も。その渋温泉街へリゾート開発事業の勧誘をしている会社――渡はすぐに、早瀬コンツェルンだと気づいた。

自分の父の会社が、アキの実家を含む渋温泉街を買い取り、リゾートにしようとしている。

そう気づいても渡は、何もしようとはしなかった。義兄とは折り合いが悪いし、同じ会社にいるとはいえそもそも関わっている部署が違う。

それに渡の個人的な考えとしては、廃れた温泉街は大企業に取り込まれた方が金を生み出すのではないかという早瀬コンツェルンの方針と同じだったからだ。アキと七瀬には悪いが、この件について口を挟むつもりは全くなかった。

けれどアキや七瀬とクラスメイトとしてすごすうちに、二人が実家を復興させようと懸命に勉強していたことを知った。キャバクラ実習やカジノ講座など温泉には直接関係のない授業も投げ出すことなく、渋温泉街が少しでも復興できる可能性があるのならと、周りの生徒に助けてもらいながらも一つ一つ真摯に取り組んでいた。

二人の努力が泡に消えるところは見たくないと強く思った。それに加え、校外実習で田舎の温泉街で暮らす人々と触れ合ううちに、渡の考え方も変わった。渋温泉はリゾートに変えるよりもそのままの形で、集客できる何かを考えた方がいいのではないかと。

古いものには古いものの良さがある。田舎には都会にはない良さがある。田舎にスパリゾートができたといって、都会を好む若者が足を運ぶかは疑問だった。逆に、よくわからないものとして古くからの客である年配者の足が遠のき、結果として現在の渋温泉よりも客が遠のいてしまうのではないだろうか。

バサバサと水鳥がはばたく音にはっとする。気づけば辺りは明るくなっていて、物思いにひたりすぎたと頭をかいた渡は振り返って春陽館へと走り出す。来たときよりも幾分かスピードを速めた。何も言わずに出てきたのだ、いつもの朝のランニングだと分かっていても戻ってこない渡を心配して八郎たちが探し出す頃だ。

いつもならば戻ってくるまで気にしないだろうが、今日は滞っていた撮影を終わらせなければならない。そんなときにスタッフが足りないと、いつもおちゃらけている八郎もさすがに怒るだろう。

つらつらと考えながら走っているとあっという間に旅館へ着いた。玄関口では何やら人が集まっていて、もしかして探させてしまったかと焦ったが、どうも様子がおかしい。

見覚えのあるスーツ姿の背中を見つけ、渡は不審そうに眉を寄せた。集まっている人の中にアキがいることに気づいて、渡は迷いなくそちらへ向かう。

「だから、今日は無理だとお伝えしていたじゃないですか」

「うるさいな、俺が今日だと決めたんだ。君は黙ってついてくればいい!」

「ちょっと、お姉ちゃんを離しなさいよゴキブリ男!」

「は!? ゴキッ……!? 君、妹にどんな教育をしてるんだ! 年上を敬うようきちんと躾けろ!」

「早く帰らないとゴキジェット、シューしますよ! いいんですね!?」

「うわっ、やめろこのブス共! 誰に向かって殺虫剤かけてるんだ!!」

集まっていたのは春陽館の従業員数人、温水旅館に泊まっていたはずのアキと七瀬、二人を庇うよう背に隠している春陽館の女将、そして対するスーツ姿の男――渡の義兄、秀長だった。アキはなぜか殺虫剤を手に持っており、発射口を秀長に向けて威嚇していた。

聞こえてきた秀長の暴言には腹が立ったが、それは女将も同じだったらしい。大人しそうな雰囲気ががらりと変わり、冷たく秀長を睨みつけた。

「ちょっと、今、ブスって言いました?」

「な、なんだよ、本当のことだろ!」

「私の可愛い妹と、可愛い幼馴染に向かって、ブスって言いました?」

「な、き、君のことを言ったんじゃないんだから、黙ってろよ!」

女将の雰囲気が変わったことに気づいた秀長は、そんな態度をとられたのは初めてだったのだろう、驚いたように目を開きながらほんの少し後退った。

アキと七瀬は嬉しそうに顔を見合わせる。

「あーあ、言っちゃった」

「こうなった奈美ちゃんは怖いよ~」

「お姉ちゃんは私たちのモンペだからね」

くすくすと笑い合う二人の前で、女将はにこりと綺麗に微笑む。その笑顔がなぜだか恐ろしい。

「秀長さん、貴方とは、きっちりお話する必要がありそうですね……?」

「な、な、なんだよ、君、いつものおしとやかさはどこにいった!?」

「貴方に合わせるためにかぶってた猫のことですか? 可愛い妹たちに暴言を吐かれたときにはもう逃げちゃいましたね。いいですか秀長さん、そもそも貴方、いつの時代の生まれなんです? モラハラ、セクハラで訴えられることの多いこのご時世に、よくもまあ上から目線で命令してくれますね。私と貴方は婚約者であって上司と部下ではないんです、実家の大きさが違おうと人と人は対等なんですよ。それを貴方はご実家の大きさをご自身の偉さと穿き違えて、あれこれ命令してくれちゃって。それだけならまだ我慢できましたが、うちの従業員に対しても重箱の隅をつつくような細かいことをねちねちグチグチと。私に対しても、」

怒涛の勢いで言い募る女将に、秀長はもうたじたじだ。渡も、いつ声をかければいいのかわからず、立ち尽くすしかなかった。

「あ、渡だ」

「え、渡? どうしたのこんな所で」

「お前らこそ何してるんだよ……」

アキに気づかれ、首を傾げる七瀬に、渡はようやく声をかけることができた。

「このゴキブリ男がね、奈美ちゃん、七瀬のお姉さんの婚約者なんだけど、昨日と今日は妹の学校関連で忙しいから相手できないって伝えてあったのに、自分の予定が空いてるからって無理やり奈美ちゃんを連れ出そうとしててね。いくら婚約者でも、それやっちゃダメでしょって」

アキが状況を説明してくれる。いかにも自己中心的な愚兄のやりそうなことで、頭が痛くなった。会社勤めのため、部下がいる立場で思うように時間がとれず、やむなくこの時間になったのだろうが、相手の都合お構い無しに連れ出そうとするのはどう考えても駄目だろう。

「……お前、なんでここにいるんだ」

懇々と説教してくる女将――奈美にたじたじだった秀長は渡の存在に気づくと、空気が変わった。憎々しさを隠そうともしない秀長にびくりと体を震わせた奈美はそっと隣を離れ、アキと七瀬を守るように腕に抱きこんだ。

「なんでって、そこの姉さんの妹のクラスメイトだからだよ」

「お前が奈美を姉と呼ぶな! 汚らわしい愛人の子が!」

別に秀長の婚約者だから彼女を姉と呼んだわけでなく、一般的に若い年上の女性に対しての呼び方をしただけなのだが、秀長は嫌悪感を顕に吐き捨てる。隣でアキと七瀬が息を呑んだのがわかった。ああ、渡が愛人の子だと知らなかったのか。渡は愛人だった母の子であることを恥ずかしいと思った事がないから気にしていないが。

「ちょうどよかった。秀長、早瀬コンツェルンとして渋温泉街から手を引いてくれないか」

「ハァ? お前ごときが何言ってるんだ、馬鹿なのか?」

「ここをスパリゾートに変えたって客が遠のくだけだ。渋温泉街は今の形で残しておく方がいい」

「馬鹿とは話できないな。ここをスパリゾートに変えることで倍以上の収益になる。信頼性の高いデータとして出ているんだ。馬鹿は黙って見ていろ、オレの邪魔をするな」

「そうだな……じゃあ、『テルマエリゾート』の責任者として、と言ったら?」

秀長は渡の言うことを鼻で笑うだろうと分かっていた。だから渡は切り札を切る。会社として秀長は手が出せない、とっておきのカード。父が渡を帰国させ、早瀬家へ養子に入れてまで任せたいと言っていた事業だ。

秀長はそれを聞いて顔色を変える。

「……っ、お前!!」

「スパリゾートに変えたって収益が出るのはほんの数年だろ。そんなのより俺の方が渋温泉を上手く使える。ここは『テルマエリゾート』が手をかける、早瀬コンツェルンは手を引け」

「ッ、渡、テメェ!!」

自身よりも上の立場を出されると秀長はどうしようもない。ただこみ上げる怒りと衝動のまま、渡の胸倉を掴み上げ、拳を振り上げる。

その拳を掴んで止めたのは、壮年の男性だった。邪魔をするなと怒鳴り上げようと振り返った秀長は、はっと目を見開く。

「父さん! なぜ止めるんです!」

「秀長、手を離しなさい。会社として暴力はまずいだろう」

「……っ、わかり、ました」

渋々振り払うように手を離した秀長。離された胸元を整え、渡は秀長を下がらせた父親を見る。春陽館の従業員、奈美が揃って頭を下げるのを、父親は片手を挙げることで制した。

「え、誰このおじさん?」

「ちょっ、バカ、アキ! しー! 渡のお父さんなんじゃないの!?」

相変わらず空気を読めないアキは七瀬に口を塞がれていた。二人に反応することなく、父親はゆっくりと口を開く。

「話は聞いていた。それは学園からの指示なのか」

「いや、オレの個人的な考えだ。渋温泉には、スパよりも今の形を維持していた方がいいと思ってる」

「当てはあるのか」

「ある」

真意を見極めるよう父親の鋭い視線が渡を刺す。ここで視線を反らすと屈したと同義だ、渡も自身の意思を伝えるように父親をじっと見つめた。

暫く睨み合っていたが、ふいに父親が動いた。口元が緩やかに弧を描く。

「面白い。秀長、リゾート開発は一時停止しろ。『テルマエリゾート』のやり方を見せてもらおう」

「なっ、正気ですか父さん!?」

「『テルマエリゾート』を任せたのは私だからな、渡にも一度くらいチャンスをやってもいいだろう」

食いかかる秀長を一蹴し、父親は高揚に笑ってみせた。しかしその目は笑っていない。恐ろしいほど冷静で、渡が『テルマエリゾート』を成功させるとは思っていないようだった。その言葉通り、一度だけチャンスを与える、それ以外に意図はなさそうだ。

但し、と父親は続けた。

「渋温泉へ客が戻らなければ、停止していた業務を再開させる。今までよりも早いスピードで、だ。それでも?」

「ああ、構わない」

「……くそっ、せっかく軌道に乗りかけてたのに!」

ぎらぎらと憎悪溢れる目で睨まれ、渡は肩をすくめた。仕事の邪魔をしたのは悪いと思っているが、こればかりは譲れない。ちらりと見たアキは、リゾート開発が止まると聞いて飛び上がって喜んでいる。

「アイツが泣かなきゃ、なんでもやるさ」

ぽつりと呟いた言葉は誰にも聞かせないはずだったが、七瀬が驚いたように顔を上げたことに渡は気づくことはなかった。

父親は怒りで震える秀長を乗ってきた車へと促し、そばにいた奈美へ声をかける。

「奈美さん。騒がせてすまなかったね」

「いえ。こちらこそ失礼な態度をとってしまい……」

「いいんだ。君と秀長は対等なのだから、思ったことは何でも言っていい。あいつは少し癖があるが、見限らず、尻を叩いてやってくれ」

父親に促された秀長は渡とすれ違い際「このままですむと思うなよ」と捨て台詞を吐く。渡は何も返さなかったが、兄弟の確執はさらに深まってしまった。

従業員に見送られながら去っていく車を何となしに見ながら、渡は「さて」とアキと七瀬、奈美に切り出した。

「まあ、こういう事になったわけだが、何か良い方法はないか?」

「「ハァ!!?」」

あれだけ格好良く「当てはある」と言い切った渡からとんでもない発言が出て、アキは思わず食って掛かった。

「当てがあるって言ったよね!?」

「ああ言わないと引き下がらないじゃないか」

「そうかもしれないけどぉ!」

ぽかぽかと渡の腕を叩くアキをまあまあと宥めた奈美は、改めて渡に向き直る。

「でも、一時的とはいえリゾート開発が停まるのは助かるわ。ありがとう、秀長さんの弟さん」

「その呼び方はやめてください、あいつと血縁だなんてゾッとする」

本気で嫌がる渡に奈美は苦笑するしかない。

「渡、あの、ありがとう……」

七瀬はいつもの強気はどこへやら、気落ちしたような表情で渡へ礼を言う。落ち込んでいるように見えて、あてが無いということがそんなにショックだったのかと察した渡は謝罪を込めて七瀬の頭をぽんぽんと撫ででやった。

「いいよ、気にすんな」

弾かれたように頭を上げ、何かを言いたげに口をぱくぱくさせた七瀬はじわじわと頬が赤くなっていく。渡が首を傾げてみれば「もう!」とそっぽを向いてしまった。

「だけど、問題はこれからだぜ。一旦渋温泉から退かせることはできたが、早瀬コンツェルンをどうやって納得させるか、だ」

どうやって渋温泉を復興させるか。それが鍵だ。

廃れた温泉街へ客を戻すのは生半可な気持ちではできっこない。復興させたいという気持ちがあっても、並大抵の事では客は戻らない。渡たち若者が考えそうな案はすでに渋温泉街の各旅館も試しているだろうから、今までに無い案を出さなければならない。

うーんと4人頭を突き合わせ、これからどうするかを考えようとしていた、そのとき。

どたどたと騒がしい音を立てながら現れたのは八郎だった。

「何やってんねん渡お前ー! めちゃくちゃ探したんやぞ! 撮影の準備せんかいって、七瀬ちゃんやん! どないしたん、集合時間はまだやで、ハッ、まさかワイに会いに……!?」

渡へ怒っていたかと思えば、鼻の下を伸ばして七瀬へでれでれと笑いかける八郎に、緊張感をぶち壊しにされた4人は肩を落とす。

「は~~~ほんと八郎ってクソ」

「いきなりの暴言!! あ~でもええわぁ、七瀬ちゃんのツンデレ最高やぁ」

「ねーちょっといいー!? このクソ野郎つまみ出してほしいんだけどー!!」

「七瀬ちゃんそんな殺生なぁ! ちょっとしたジョークやないけぇ!」

朝から幸せそうに鼻の下を伸ばしている八郎に引いて、七瀬は早瀬コンツェルンの二人を見送っていた従業員達へ本気で八郎をつまみ出すよう指示を出す。愛しの七瀬の実家で働いている従業員だ、粗相はできないと八郎は七瀬の脚に縋りつき、七瀬は悲鳴を上げて八郎を蹴飛ばした。

七瀬の本気の嫌がりように、奈美は思わず助け舟を出してやった。

「ほら、七瀬もアキちゃんも、今日もやることあるんでしょ? 引き止めちゃってごめんなさいね、渡くん、さっきの件、よろしくお願いします」

「大丈夫だよ奈美ちゃん! きっと大丈夫だから! 待っててね!」

改めて頭を下げる奈美に、渡の隣にいたアキはぎゅっと奈美の手を握った。

アキの“大丈夫”は、本当に力がわいてくるようだった。見切り発車で虚勢を張っただけだが、テルマエリゾートが本当に成功するような気がする。まだ何も決まってないというのに。

とりあえず、いつものメンバーも巻き込まなくては。そう決めて、渡は七瀬に蹴られて幸せそうにでれでれしている八郎を放って春陽館へ戻っていった。

順調に撮影が進んでいた八郎の自主制作映画だが、後半のお色気シーンで主演の七瀬含む女子生徒からの猛反対によってあえなく頓挫し、映画制作は中止に追い込まれ。ここまで金をかけたにも関わらず撮影したものは日の目を見ることはなかったと明記しておく。

おわり