【小説】東京テルマエ学園 第1章12話 「湯船を止めるな!渋温泉」中篇

星野七瀬は、いつも“2番目”だった。

『本当に可愛いわねぇ』

小さな頃、女の子は誰でも自分が“お姫様”だ。自分が一番可愛くて、一番きれい。

一番可愛い自分には、いつかかっこいい王子様が迎えにきてくれて、二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ、のハッピーエンドを迎えるのだと信じていた。

けれど七瀬の小さな世界は、あっけなく崩れてしまう。

『七瀬も可愛いけど、奈美の方が美人さんね。お姫様みたいだわ』

“お姫様”になるのは、いつだって姉の奈美だったから。

奈美は小さい頃から美人だった。誰にでも優しくて、本が好きだったからいろんなことを知っていて、早いうちから善悪を把握し、周りの子を諭すのが上手かった。村一番の乱暴者だって、奈美がやんわりと注意すれば途端に大人しくなるほどだ。

みんなみんな奈美が大好きで、親や親戚だってそうだった。

『お姉ちゃんみたいな可愛い子が姉だなんて、七瀬ちゃんも嬉しいでしょう』

『奈美ちゃんがうちの子だったらよかったのに』

『七瀬ちゃんもお姉ちゃんを見習いなさいね』

みんな奈美ばかりを褒めて、七瀬を褒めてくれる人はいなかった。

優しい姉のことは大好きだったし、みんなが悪気があったわけじゃないのはよく分かっているけれど、そうやって比べられてばかりだったから、七瀬はよく思ったものだ。「お姉ちゃんみたいに可愛くない子で悪かったわね!」と。

女の子は小さい頃に自分が一番可愛いのだと信じ、親にそれを肯定されることで自己肯定感を高めて成長していくのだと聞く。七瀬の場合、自分よりも姉ばかりを可愛がられていたため、大きくなった今でも自分に自信を持てないでいた。

可愛いとはよく言われる。美少女だと言われたこともある。それでも思うのだ、「同じことをお姉ちゃんに会った後でも言えるの?」と。「どうせ私はお姉ちゃんの“次”なのよ」と。

貶されてもいないし、悪口だって言われていないのに、奈美が褒められるたび、自分が否定されているようだった。

中学にあがる頃には、特にその思いが強かった。

渋温泉街を含む小さな村には小学校も中学校も一つしかない。そこで話題になるのはいつだって美人な姉のこと。人目を集める奈美は、良い意味でも悪い意味でもよく目立った。ついでに妹である七瀬のことも。

『あんたの姉、どうにかしなさいよ!』

奈美は美人だから、思春期の男子はみんな奈美に憧れる。自分の懸想していた男子が七瀬の姉に惚れていて告白を断られる、といったことも、女子生徒にはよくあることだった。だからといって納得できるはずはない。

奈美に文句を言うと取り巻きの男達に「ひがんでんじゃねーよブス!」と罵られることを分かっていた女子生徒たちは、奈美への鬱憤を七瀬にぶつけた。

『わたしの好きな人があんたの姉にとられたんだけど!!』

『ちょっと美人だからって、男侍らしてんじゃねーよ!!』

同級生も、年下、年上関係なく、奈美の意図しない弊害で苦しんでいる女子生徒はたくさんいて、七瀬に対して一人が八つ当たりを始めると、みんなこぞって七瀬へ牙をむいた。

最初は悪口程度だったものが、わざとぶつかられたり下駄箱の靴を隠されるようになり、ノートや教科書はびりびりにやぶられ、弁当は中身ごとゴミ箱にぶちまかれ。鞄を開けると蛙がぴょんと飛び出してくることもあった。

女子生徒からの八つ当たりに似たいじめに七瀬は最初こそ一つ一つ怒ったり反論したりしていたけれど、止まらないいじめに、何を言っても無駄なのだと諦めてしまった。

一番心にきたのは、身体測定のときのこと。下着姿で身体検査を受け、着替えようとすると制服が隠されていた。心当たりが多すぎて、逆に誰がやったのかなんてわからない。どこに隠されたのかすら。

季節は冬、身体測定の順番が一番最後だったため、更衣室の暖房はすでに消されていた。がたがた震える体を両手で抱きしめた七瀬はその場に蹲り、寒さと心細さと情けなさと悔しさで涙がこぼれた。

いじめられて泣くなんて、負けたようで絶対にやりたくなかったのに。一度こぼれてしまった涙は堰を切ったようにとまらない。

なぜ自分がいじめられなくてはならないのだろう。奈美のことは奈美に言えばいいのに、どうして自分ばかり責められるのか。思えば小さい頃から姉のせいで嫌な思いばかりしていた。奈美がいなければ。奈美のせいで。そうやって奈美を恨もうとしても、七瀬を一番可愛がってくれるのは奈美なのだ。

嫌いになれたら、関係ないと突っぱねられたらこんなに苦しい思いなんてしないですむのに、こんな時に浮かんでくるのは七瀬と呼んで手を差し伸べてくれる奈美の笑顔ばかりで。

大好きな姉を嫌いになろうとする気持ちと、嫌いになれない気持ちとで、苦しくて苦しくて仕方がなかった。

『七瀬、大丈夫!?』

教室に帰ってこない七瀬を心配して探しにきてくれたのはアキだった。

下着姿のまましゃくりあげて泣いている七瀬を見たアキはすぐに状況を把握し、すぐさまその場で制服を脱ぎ始めた。ぽかんとする七瀬に、同じく下着姿になったアキは自分の制服を寒さで震えている細い体に羽織らせてくれた。

『わたし、昨日の体育のあと、体操服持って帰るの忘れてたんだよね。着て帰れば絶対忘れないから、七瀬、代わりに制服着ててくれない?』

なんと下手な言い訳だろう。何も言えない七瀬をそのままに、アキはさっさと自分のロッカーから体操服を取り出して着替えてしまった。授業遅れちゃうよ、と急かされるまま着たアキの制服は自分のものより胸のあたりが少しスカスカしていたことが気にかかったが、残ったアキのぬくもりが冷えた体を温めてくれるようで、七瀬はまた少し泣いてしまった。

教室へ戻るとクラスメイトの視線が集まった。七瀬の制服のことをみんな知っているのだろう、にやにやと意地悪く笑いながらこちらを見て。制服を着ている七瀬と体操服姿のアキに驚いた顔をしていた。

なんで、どういうこと、とひそひそ囁き合うクラスメイトの横を堂々と歩き、「ね、次なんの授業だったっけ? 宿題あった?」と何事もなかったように声をかけるアキに、クラスメイトは逆に引いていたように思う。

そして、その日の放課後。制服が見つからず落ち込んでいた七瀬は上級生から呼び出しを受けた。七瀬を一番最初に目の敵にし、いじめを先導していた女子グループだった。

体育館の裏という定番のスポットへと赴けば、待ち構える数人の女子グループ。そこからは罵詈雑言を浴びせられた。

出てくる出てくる、姉への不満。それと、いじめられているのにへこたれる様子のない七瀬への不満。

最終的には、土下座して謝れば許してやる、だなんて言い出す始末だった。土下座したっていじめをやめるつもりなんてないくせに。土下座の様子を携帯電話で録画して、それをいろんな人に面白おかしく広めるつもりなのだと分かっていた。

けれど味方のいない状況は確実に七瀬の心をすり減らしていた。

小学校のとき仲が良かった友だちは七瀬を見ると気まずそうに顔を見合わせ、いじめに加わることはなかったが止めることもせず、そっとその場を立ち去るだけ。ありもしない噂を流されて、男子生徒からは「俺と遊んでよ~、んで姉ちゃん紹介して!」とからかわれる。

隠される靴を探すのはもう疲れた。破られた教科書をテープで貼るのだって面倒だし、ノートだって何回買いに行ったことか。母が愛情こめて作ってくれた弁当を台無しにされ、それでも母には「美味しかったよ、また作って」と声をかける時の情けなさは、心を暗く沈めていく。

土下座して謝れば、一時的とはいえ解放されるかもしれない。制服を隠されたショックといじめに疲れきった頭では、それしか考えられなかった。

その場に膝をつこうとした七瀬は。

『もう、いい加減にしてくださぁーい!!』

突然その場に響いたドガァンという音と聞き慣れた声の大きさに、ぱちりと目を瞬いた。

見れば、体育館の壁に穴が開き、ぱらぱらとコンクリートの破片が地面へ落ちていく。その穴へ握り締めた拳をめり込ませているのはアキだった。

『毎日毎日七瀬をいじめてー! 七瀬が何をやったって言うんですか! 七瀬のお姉さんのことは七瀬には関係ないと思います! 言いたいことがあるならお姉さん本人に直接言えばいいじゃないですか! これ以上、関係ない七瀬をいじめないで!!』

温厚で優しいアキが七瀬を背に庇い、怒りで体を震わせながら、上級生の女子グループを前に凛と佇んでいた。普段大人しい人ほど怒ると怖いというが、そのときのアキは言い表せないほどの迫力があって、女子グループが手を取り合って怯えるほどだった。壁に空いた穴を、特に。

『わかっていただけました!?』

怯えて言葉も出ない女子グループへ怒りに任せてアキがどんと地面を踏み鳴らすと、『ごめんなさい、もうしませんー!』と蜘蛛の子を散らすように逃げていったのだ。

そうして、つらかったいじめはようやく終わった。

自分を散々いじめていた女子がアキに怯えていたのは、少し性格が悪いだろうが、すっきりしてしまった。あの時アキが壁に穴を空けたのは正直驚いたけれど、普段から人一倍よく食べるからそんな力がついているのだろうと七瀬は思っている。

こうして助け、助けられ、アキとはただの幼馴染ではなく親友という間柄になったのだ。

けれどアキと一緒にいるときでも、時折アキへの劣等感を覚えることがある。

天然で可愛くて、誰にでも優しいアキ。おっぱいだって大きいし、ドジだけど、その失敗を笑ってフォローしてもらえる人柄がある。七瀬が同じような失敗をしたら、みんな面倒がって怒るだろうに。そういうタイプの人間なのだ、アキは。

自分を認めてほしくて、いろんなことを頑張った。成績優秀、授業態度良好。優等生と呼んでもらえるようになっても、心にぽっかりと空いたままの穴は少しも小さくならない。

何でもできるということは、何もできないことと変わりない。人より秀でていても、頂点じゃない限り意味がないのだ。

けれどあのとき、新歓コンパで渡に言われた言葉。

『何もできないのと、何でもできるは全然違うだろ』

その言葉に、自分を見てほしくて泣き続けていた幼い自分に手を差し出されたような、燻り続けていた心が救われた。

渡にとっては酔っ払った七瀬を宥めるために何となく告げた言葉だったのかもしれないが、七瀬はそう言われて初めて、人に認めてもらえたような、肩が軽くなったような、穴の空いた心がじんわりと温められたような気持ちになったのだ。

アキのそばにいて、劣等感を覚えることも少なくなった。全部、渡のおかげだ。

ピロン、とラインのメッセージが届いた音で七瀬は目を覚ました。

昨夜アキとの付き合いが長くなったという話をしていたからだろうか、昔のことを夢に見て、ひどく懐かしい気持ちになる。ここ最近悩んでいたことが忘れられるくらいに。

起き上がると、隣に敷いた布団でアキはまだ眠っていた。何やらむにゃむにゃと口を動かしたかと思うと、「今度はあれ食べたいなあ」と寝言を呟くものだから、夢の中でさえ何かを食べているのかと七瀬はつい笑ってしまった。

スマホを手にとり、通知されていたラインをタップしてメッセージを呼び出す。そこに書かれていた言葉に、七瀬は全身から血の気が引いた。

『早瀬さんとの縁談がまとまりそう』

早瀬。早瀬秀長。

渋温泉でリゾートを開発するため各旅館へ交渉している企業の事業開発の担当者であり、早瀬コンツェルンの次期社長。そして――クラスメイトであり、七瀬がつい目で追いかけてしまう早瀬渡の、兄だった。

最初に疑問を抱いたのは、GWのあたりだ。入学してから初めての大型連休、相談することもなく当然のように決まった里帰り。たった一月しか離れていなかったのに妙に懐かしくて、実家へ帰ったその日は奈美の部屋に転がり込んで離れていた間のことを報告し合った。

その時に、奈美が深刻そうな顔で出してきた一枚の名刺。

『お付き合い、してみようかなって思ってるの』

美人ながら、本当に好きになった人としか付き合わないと決めていた奈美。浮かない表情を見れば、その言葉が好きになったからという理由ではないことはすぐにわかった。

早瀬コンツェルン、早瀬リゾート開発責任者、早瀬秀長。

渡されたごく普通の名刺を裏返すと、プライベート用と思わしき携帯電話の番号と『連絡するように』の走り書きのメッセージ。聞けば、七瀬も数回会ったことのある、奈美に馴れ馴れしくしていた、リゾート買収を持ちかけていた男だ。

『冗談でしょ、なんであんなゴキブリストーカー男と!』

ゴキジェットを本気で吹きかけてやろうかと憤っていた七瀬は、ふと気づいた。自分のクラスメイトに、同じ苗字の男子生徒がいることを。

ただ苗字が同じだけだろうと軽い気持ちでスマホで検索してみると、渡はアメリカのボクシングハイスクールに通っていたことがわかった。渡の今よりも若い姿の写真がいくつか出てきて、つい七瀬はその写真に見入ってしまった。

他には無いだろうかと興味本位であれこれ調べていくうちに、風向きが変わった。少しずつ早瀬コンツェルンと関わる記事が多くなり、頼みのウィキペディアでもなぜか早瀬コンツェルンのページに渡の名前がリンクされていて。嫌な予感が頭をよぎる。

たまたま苗字が同じなだけ。アメリカのボクシングスクールで成績優秀だった渡は早瀬コンツェルンから何か表彰されたりしたから関係者としてリンクが繋がっていただけ。そう自分に言い聞かせても、嫌な予感で胸がざわざわする。そして彼が無関係なことを証明したくて調べまわった結果。

早瀬コンツェルン代表の跡取り息子の一人だということが判明したのだ。

『跡取り、息子……』

渋温泉街をリゾートにしようと買収を持ちかけていた男女を思い出す。腰は低いがどこか嫌味ったらしい、弱みに付け込むような言い方で話をしていた彼ら――それを束ねる早瀬コンツェルンの御曹司。奈美に言い寄るストーカー男の弟というわけだ。

『早瀬さんとお見合いをすることになったわ』

渡が御曹司だと判明したのと同時に、奈美と早瀬秀長の見合いの日付が決まった。セッティングしたのは奈美自身だった。奈美の年齢ならばまだ結婚を意識しない気軽な付き合いでいいはずなのに、見合いとなると結婚を前提とした付き合いになるということだ。

『どうして!? お姉ちゃんならもっといい人見つけられるでしょ!? なんで、よりによってあの男なのよ!』

必死に早瀬秀長との見合いを止めようとする七瀬に、奈美は諦めたように笑った。

『私は、長女だからね』

その言葉に七瀬は察した。

急いで実家の経営状況を調べると予想よりもはるかに悪くなっていることが分かった。それから両親に奈美の見合いのことを尋ねると、思っていた以上に好印象だったのだ。そうして、奈美がこの旅館の未来のため、両親を安心させるために、早瀬コンツェルン代表の跡取り息子の一人で、特に影響力を持っているだろう長男の秀長と結婚することを選んだのだと気づいた。

一人大反対する七瀬は、それ以上奈美の見合い話を聞かせてもらえなくなった。七瀬の前ではみんな、奈美でさえも口を閉ざす。小さい頃から働いてくれている仲の良い従業員に頼み込んで、決して邪魔をしないという約束で奈美の見合い情報を報告してもらっていたのだけれど、先日行われた両家の見合いは大層和やかな雰囲気で終わったのだという。

見合いが終わったその日からは、また奈美がぽつぽつと秀長とのことを教えてくれるようになった。デートを何度かしたのだとか、食事だけで終わる日もあれば、丸一日連れ回されることもあったとか。

そのまま秀長が、思っていた女性じゃなかったとかで奈美のことを振ってくれないかと期待していたのだけれど、秀長は奈美の容姿が本当に気に入っているようでとんとん拍子に話が進んでしまった。

そして、縁談がまとまるかもしれないとの奈美からの連絡に、七瀬はどうしたらいいのかわからなくなってしまった。

ピピピピ、とアラームが鳴り響き、物思いに耽っていた七瀬の体がびくりと跳ねる。

隣で眠っていたアキがもぞもぞと動き、ふらふらと彷徨う右手がスマホを探し当ててアラームを切る。大きな欠伸をしながら体を起こしたアキは、スマホを見ている七瀬に気づいてにっこりと笑った。

「おはよ七瀬! 今日も早いね」

視線をゆっくりとスマホからアキへうつす。いつもどおりの優しい笑顔に胸が苦しくなって、七瀬の視界がゆがんだ。

「えっ七瀬!? どしたの、怖い夢でも見たの!?」

怖い夢なら良かったのに。夢ならいつかは覚めてくれる。けれど胸を刺す痛みは現実で、溢れる涙がとまらない。

それでも頭をよぎるのは、姉ではなく渡のことで尚更胸が痛くなった。

「どうしようアキ……お姉ちゃんが、」

つづく