【小説】東京テルマエ学園 第1章12話 「湯船を止めるな!渋温泉」前篇

日頃それほど賑わいを見せることのない河原に、何やら複数名の男女がたむろっていた。

大きめなビデオカメラを手にした者や、無意味にメガホンを手に声を荒げている者、長い棒の先端に付けられたマイクの調子を調整している者に、本を片手に何やら打ち合わせをしている者まで、所狭しと慌ただしく動いている。

「よっしゃ、ほんなら、そろそろ撮影始めよか! 衣装班はアキちゃんと七瀬ちゃん、圭ちゃんの衣装整えたって。マイク調整はええか? カメラ、スタンバイできてるか?」

場の中央に立ってメガホンを振りながら大声で指示を出す八郎に、全員が最終チェックをスタートする。

カメラを手にした渡がOKサインを出すと、続いてマイクを手にした男子生徒も同様のサインを出して状況を知らせていた。

そんな中、三人の衣装やメイクをしている女子生徒と男子生徒が、手早く調整を行っていた。

「えっと、とりあえずここにいつもみたいな野天風呂を作る感じで良いんだよね?」

クラスメイト達のいつもと違う雰囲気につられ、アキは少し緊張しながら、メイクを直してくれる涼香へ声をかけた。涼香は笑いながら軽く頷き、手早くアキの頬へファンデーションをはたく。

今まで他人からメイクをして貰うなどという経験のないアキは、この撮影が始まってからずっと緊張しっぱなしだ。女優志望の七瀬と違って美人でもなんでもない自分が、他の人からメイクをしてもらい映画に出るだなんて、これっぽっちも考えたことがなかったからだ。

「ううー、緊張するよぅ。セリフ間違えないかなぁ。七瀬はちゃんと覚えた?」

「…………」

「七瀬? 聞いてる?」

台本へ視線を落としている七瀬に声をかけたが、返事がない。そんなに真剣に台本を読み込んでいるのかと思いきや、七瀬はどこか心ここにあらずな様子で台本の文字をただ見つめているだけのように見えた。

アキがぽんと肩を叩いてみせると、ようやく七瀬は視線を上げる。

「え? ああごめん、何?」

「ううん、セリフちゃんと覚えたのって聞いただけ」

「覚えたに決まってんでしょ。アキこそ、ちゃんとセリフの確認しときなよね」

七瀬はそう言うと、穂波にメイクを直してもらっている圭のところへ台詞のチェックに行ってしまった。アキは離れていく後姿を心配そうに見送る。撮影が始まった頃から七瀬の様子がなんだかおかしいような気がする。芸能界入りを目指している七瀬にとっては撮影は大チャンスだと思うのだけれど、気負いすぎているのだろうか。

とはいえ七瀬も圭も頑張っているのだから、アキがここで尻込みしていても始まらない。緊張しようが恥ずかしかろうが、最後までやり通さなければ。そう自分に言い聞かせて、七瀬のことは気になりつつも、アキは少しでも緊張がほぐれるようにと大きく息を吐いた。メイク直しが終わった涼香はアキを励ますようにぎゅっと両手を握る。

「そんき緊張すねでも大丈夫よぉ。どうせ、学校のサークルで作る自主映画みだいなもんだはんで」

涼香の言うとおり、この撮影は八郎のサークルの自主制作映画だ。

文化祭で大賑わいを見せたC組、その集客を務めたのは八郎だったが、SNSで七瀬になりすまし、七瀬やアキ、他の女子生徒の写真を勝手にSNSへあげ、挙句アキのオッパイがポロリした動画までアップロードした事件はそれはもう女子の怒りを買ったものだった。

しかしアップロードされたSNSでは男性がメインターゲットだったこともあって大いに歓迎された。ポロリしてしまったアキだけでなく、七瀬はもとよりキャバ嬢の優奈やショートカット美人の圭など、一般的に綺麗だと評される女子も映っていたため、七瀬になりすました八郎のアカウントには『この子たちをもっと見たい!』という要望が殺到したのだそうだ。

そこで八郎が思いついたのが、自主制作映画だった。

「ワイ映画、作ろうと思うてんのやけど?」

スマホを弄っていた八郎が突然そう切り出し、総合科学研究部の副部長の二郎はスマホで隠し撮りしていたアキの写真から視線を上げた。

「昨夜、水曜ロードショーを見て思ったんですわ。カメラを止めるな! ちゅう映画。なんか300万の予算で動員数は200万人。上映決定館数は350館以上、興行収入も30億円を突破。映画や、これからは映画で宣伝っちゅう時代が来る、あんなんワイでも作れるでぇ」

ニヤリと口元を引き上げくっくっと喉で笑う様はまるで悪代官のようだが、目だけはイキイキと輝いている。まさしく八郎がエロい事を思いついた時にみせる表情だった。

「スポンサーがつけば、宣伝も出来るんや。現場は宣伝になって聖地として潤うしな。わいらが作れば学校側の宣伝にもなるし、出演者や監督は有名にもなれるんや」

偉そうに腕を組んでみせる八郎に、二郎は「師匠それはいい案ですね」と頷いた。

確かに売れれば八郎の言うとおり旨みがあるのだろうが、そのためにはいくつもの難関を越えなければならないはずだ。スポンサーを探し費用を集める、現場として使わせてもらえるところを探す、出演者を探し、監督も探さなければならない。

全部をやろうとすれば大事な上、いざ映画を作ったとしても『話題の映画』として集客するには簡単な話ではないはずだ。

しかし、その部分には一切触れずに、八郎はニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべながら話し続けた。

「で、どんな映画を作るんですかい師匠」

「カメラを止めるな! の向こうを張って、湯船を止めるな! ってどうや」

「なんですか、師匠。思いっきりパクってるやおまへんか」

「アホ、パクっても中身が違えばええんや。まずワイのストーリーを聞いてくれ」

八郎が語った内容をまとめると、こういうことだった。

温泉旅館の集客を上げるために知恵を絞った結果、東京テルマエ学園から派遣されたアイドル級の女子高生たちを仲居として看板娘を使うことに決まった「七夕旅館」、そのプロモーションビデオがSNSで話題となる。

おもてなしの仕掛けは、膝上20センチのミニスカートの浴衣スタイルだった。お客が来た時は、正座してご挨拶をすると当然パンツまで見えるほど。

男性客の宴会の接客には、女子高生たち看板娘が温泉コンパニオン風にお酒を注いで回る。ましてメイド喫茶のごとく、お客様には「ご主人様」の言葉使い。

風呂に入れば背中までを流すサービスまであり、しかもソープランドのごとく、ボディ洗いまでする。

風呂から上がれば、今度は水着姿の看板娘が「垢すりマッサージ」に「全身オイルリフレマッサージ」、カラオケバーではセクシードレスを身に包んだ看板娘がキャバクラのごとくのアツアツ接待・接客サービス。耳元でお客様に、私指名でまた来てねと囁き、チェックアウトの際はハグまでしてもらえる。

まさに男性にとってのハーレムのごとくの接客・接待のサービスだった。

「そんな温泉、風営法に引っ掛かるんとちゃいまっか」

男性にとって魅力的すぎるからこそ、特に女性からの反発は大きそうだと二郎は指摘する。けれど八郎は、分かってないなと言いたげに指を振ってみせた。

「あほ、これはあくまでもPRビデオ作ろうっていう構想や、実際に出来たプロモーションビデオをYoutubeに流したとたんに、予約が半年先になるほどの、とんでもないほど反響を得る七夕旅館なんやが、そのオープニング初日に、なんと温泉に湯が出ないという大トラブルに見舞われるんや」

ボイラーの故障で、当然土日なので工務店も休み。修理に2~3日は掛かる。そこで困った宿主は、近くにある「切明温泉」の野天風呂を仮設温泉として思いつく。

急いで従業員一同が、切明温泉の河原に即席湯船を作り、脱衣所と、照明用のライトまで設置。そこにお客様をマイクロバスで全員送迎し、何と看板娘の女子高生たちも一緒に混浴までしながら月見酒のサービスまでしてくれるのだ。

「どうや!」と八郎はぷくぷくした体を張ってつらつらとストーリーを言いあげた。二郎は身を乗り出して何度も頷く。

「それはおもろいですな、お湯を止めるなじゃなくて、温泉を止めるなちゅうもんでんな」

「そや、この窮余の企画が大当たりした七夕旅館は「棚からぼた餅」のごとく「たなぼた旅館」として名前を変え、マスコミにまで取り上げられる人気旅館になったという感動のストーリーっちゅうわけや。こりゃウケルでぇ」

「ウケまんな、さすが師匠。エロい思い付きとアイデアだけが取り柄でんな」

「そうそう、俺はエロさだけが取り柄の――アホ! 天才のワイに向かって何ちゅう言い草や」

――――そんな八郎の欲望溢れる欲求から始まった映画の自主制作。

製作元は八郎の所属するサークルで、『できたばかりの東京テルマエ学園をもっと他の人に知って欲しいから』という名目なので学園側からは許可が下り、ロケ地としてアキと七瀬の地元である長野の渋温泉を舞台とするから旅館としても集客のアピールになる、とSNS上で評価の高かったアキと七瀬を説き伏せたのだ。映画が大ヒットすれば、監督である八郎と女優の七瀬が結ばれることもあるかもしれない、と八郎は鼻を下を伸ばしていた。

そんなこととは知らず、女優志望である七瀬は、この自主映画に出演すれば芸能事務所の人の目に留まるかもしれないと考えたらしく、少し悩みながらも出演することに決めた。けれどSNSで件の動画をアップロードされてしまったアキには「私が出演するからって、無理してアキまで出演すること無いんだからね!」とアキを心配して、出演してくれと拝み倒す八郎から庇い続けてくれた。

悩んで悩んで、やっぱり七瀬も出演するんだから、と承諾すると、八郎は二郎と手を取り合って喜び、七瀬は呆れながらも「無理はしちゃだめよ」と気遣ってくれた。アキと七瀬が承諾したのならと、八郎に声をかけられていた圭も渋々頷き、出演者は八郎の希望通りになった。

自主制作映画と聞けば家庭用のビデオカメラで学生劇を撮影するかのような気楽さだと思っていたのだが、気がつけば一年C組のほとんどの生徒が動員されていて、まるで本物の映画を撮影しているようだと考えてしまうと、それから緊張がとまらなくなってしまった。

大丈夫大丈夫、とおまじないのように握ってくれる両手から涼香の温かな体温が伝わってきて、ほんの少しだけアキの心が落ち着いてきた、そのときだった。

「きゃあっ! 何すんのよ!!」

七瀬の悲鳴が河原に響いた。

「何すっとじゃバカたれ!」

続いたのは、圭の抗議の声。

それに続くように自身の腰回りがぐっと押し上げられる感覚に、思わずアキも「キャッ!」と小さく声を上げてしまった。慌てて後ろを振り向くと、二郎が爽やかな表情で小首を傾げていた。何もやましいことなんてしていませんよ、というように両手をあげてみせるが、悲鳴の原因はこの男だ。

腰を見れば、履いていたスカートのウエストが脇まで引き上げられている。ふんわりしたスカートのプリーツは膝上20センチ、下着が見えるギリギリのラインまで達してしまった。慌てて裾をつかんで引っ張るが、なぜかスカートは下がらない。

「えー、何これぇ!」

仲居さん役ということで渡された衣装は丈の短い和風の浴衣で、帯などは全てボタン留めできる簡易浴衣だった。上下に分かれており、下はスカートタイプで、普通に履くだけで着物を着たようにみえる衣装となっているのだが、それが突然短くなり、固定されたかのように動かない。

顔を真っ赤にするアキのもとへ七瀬と圭もやってきて、原因となった二郎を睨みつける。

「ちょっと、どういうことよ!」

「こんなに短いとパンツ見えちゃうよぉ!」

「こげん衣装、着てられんど!」

「いやいや、監督からの指示やから。ね、師匠」

三人から詰め寄られてさすがに顔色を変えた二郎は、七瀬のむき出しになった脚をにまにまと見つめていた八郎へと話を投げた。やっぱりお前かと鋭い視線は八郎へ移される。

三人の威圧感に僅かに後ずさった八郎はしかしそこで持ちこたえると、僅かに頬を緩ませて、任せとけといわんばかりの瞳で二郎を流し見た。

「今回の衣装は金かかっとる上に、かなり加工しとるから換えもないんや。温泉で濡らされると後の撮影にも響くから、多少調整させてもろうたんや。このシーンだけの特別仕様やで」

「だからってこんなに短くする必要ないでしょ? 明らかにあんたの趣味じゃない!」

その弁解を聞いてもなお、超ミニスカ状態の七瀬が八郎に詰め寄ってくる。しかし、八郎はさも当然といわんばかりの表情だ。

「さすがに、一着十万の衣装の替えをそないに用意できひんからなぁ」

「じゅ、じゅうまんえん!?」

「こん衣装、一着十万もすっと!?」

「金のかけどころがおかしいでしょうが!」

今回はかなり強気に押してくる八郎。このシーンだけ、ぬれない為の配慮、という点を大きく全面に押しだし、超ミニスカを正当化するつもりなのだろう。多少強引な気もするが、自主制作映画であるため、金額を盾にされると七瀬たちもどうしても弱腰になってしまう。

何か言いたげににらみつける七瀬だったが、敢えて爽やかな笑顔で七瀬を見つめ返す八郎に何も言えず悔しそうな表情を見せた。

「ここは堪えてもらえんやろか? このシーン終わったら元に戻すし、パンツも見えへんように調整してカメラワークも考えるさかい。頼むわこのとおり!」

「……っ!」

ここは落とせると確信した八郎は、手を合わせて七瀬の目の前に突き出した。

こんな衣装を着て撮影するのは本当に嫌だが、ここまで来て恥ずかしいの一点だけで撮影をやめさせるのは、さすがに気が引けた。

七瀬はアキと圭と顔を見合わせる。圭は頭を振り、アキは肩を落とした。二人とも、我慢するしかないのだと諦めたのだ。それを見て、七瀬は八郎を睨みつけて舌打ちした。

「おかしなアングルで撮影したらどうなるか、覚えてなさいよ」

低い声で釘を刺した七瀬は、アキと圭を促して撮影の準備に入った。今回はかなりお怒りだと背を震わせながらも、主演の超ミニスカを説得できて八郎はほくほく顔だ。

「どうです、師匠?」

「ようやった!」

八郎のそばへ寄り、小声で話しかけてきた二郎へサムズアップしながらも、視線はしっかりと三人の生足を捉えてはなさない。

他の男子も突然の生足に表情に出さないながらも喜び、にっぱちコンビはさも当然のように野天風呂に超ミニスカ浴衣女子の光景を堪能していた。

「ほなら、シーン78の撮影いこか?」

本当ならずっと見ていたい気持ちを抑えつつ、八郎は当初の目的である撮影のスタートを宣言した。

同時に、アキ達三人から他のスタッフが離れ、カメラとマイク担当が定位置に移動し、合図を待っている。

八郎が手を上げて、カウントダウンと共にアクションの合図を出した。同時に辺りを静寂が包み、川の音だけが響いてくる。

それもつかの間、アキたち三人が動き出した。

『ここが、切明温泉ね……確かに、温泉が出てる』

しゃがみ込んだ七瀬は、川辺の水に手を付けて温度を確認する。僅かに暖かい。温泉が出ていることを確信すると、すぐさま強い決意のまなざしと共に立ち上がった。

『急いで準備しよう! お客様が到着する前に野天風呂を完成させないと、キャンセルどころの騒ぎじゃなくなっちゃう』

七瀬の言葉に大きく頷いて答えるアキと圭。履いていた下駄と足袋を脱ぎ捨てると、そのまま川の中へと入っていく。それほど深くはないが、それでも温泉を作っている姿を撮る為にはそれなりに奥まで入っていく必要があった。

膝上くらいまでは入らざる得ない状況となり、三人は膝上20cmまで引き上げられたミニスカートを見ながら少し笑みを見せた。エロいだけかと思った衣装が、きちんと計算されていたのだ。

「川の底の石も調整して、丁度良くしときましたで、師匠」

八郎のそばに立つ二郎が、また小声でつぶやく。批判を喰らわないように、川底までの深さまでも全て計算ずくとは恐ろしい。

そんな事とは知らず、三人は顔を見合わせると、すぐさま手近な石を動かし始めた。結構大きめな石も動かし、川から入ってくる水を遮っていく。

「アキ、気をつけてね、転んだりしないようにしなよ」

まるで姉のような台詞はアドリブだったが、もはやそれがアドリブと考えての発言なのか、いつもの癖で口に出たものかの判別も着かないほどしっくりきている。

アキもなんの考えも無しに「はーい」と返し、そのまま必死に石を積み進めていた。

さて、新しい野天風呂の石積みとはいえ、全てを一から作るのではない。あらかじめある程度形作られていた。他の入浴者が作っておいたものが多少崩れたりずれたりしていたものを、撮影前に二郎が調整して、比較的簡単に野天風呂ができるように作り替えておいたのだ。

一から作っている姿を撮りたいのではなく、映画のワンシーンとして欲しいだけなのだから、尺を採る必要も無い。そこは、絵が欲しい、ただそれだけなのである。

「あれっ? ここの石だけなんだか重い?」

必死に石積みをする三人の中で、アキは用意されていた石を強く引っ張った。

予定では石の組み替えを行うだけで簡単に野天風呂ができあがるはずだった。なので打ち合わせでもこの辺の石をここに、あの辺の石をあそこに、という明確な指示が出ていたのだ。

その通りに運ぶ予定が、意外にも石が持ち上がらない。少し重いのかと思い、アキは力一杯引っ張った。

「わっ、わわっ、わわわっ!?」

情けない声を上げるアキに、七瀬と圭が手を止めて視線を向けるとアキがふらふらとよろけている。当のアキは、持ち上げられたと思ったが、同時に周りの石がずれて周辺に積んであった石が同時に崩れ始めてしまい、わたわたと慌てていた。

教室でよろける程度なら良いのだが、野天風呂とはいえども川の中、足場も悪く、崩れた石に足を取られてしまい、アキはそのまま勢いよくひっくり返ってしまった。

「アキ?!」

豪快にひっくり返ったもので、さすがに七瀬と圭だけで無くクラス全員が大慌てで駆け寄っていく。

カメラを持っていた渡も、音声担当の生徒も、メイク担当から小道具担当まで、さすがの八郎も走り寄っていた。

「ちょお、やりすぎやで」

ぼそっと小声でつぶやくと、二郎が隣ですいませんと言わんばかりに苦笑いをしてみせる。

これもどうやら二人の仕業のようだが、頭からひっくり返ったアキを見て、二人ともさすがに反省した――かのように見えた。

「ぷっはぁ! びっくりしたぁ」

ひっくり返ってしまい、慌てて起き上がったアキは、尻餅をついたまま上半身だけを水の外に出した。

見た感じでは怪我をしている様子もなくいつもの笑顔だった。

しかし問題はそこでは無い。ひっくり返った為、全身びっしょりにぬれたアキの衣装は、補正していた糸が外れて肩から胸元まで綺麗に露出してしまっている。

その上、水を吸った衣装は重くずり下がり、豊満な胸があらわになりかけていた。

「カメラ、カメラ回せ!」

自分の状態に気づいていないアキを良いことに、八郎が慌てて渡のカメラを奪い取ってアキの姿を捉えた。

溢れんばかりの胸に、尻餅をついてしまい丸見えになったショーツ。ずぶ濡れになった姿も相まって想像以上にアキの色っぽさが引き立てられている。

二郎はといえば、ちゃっかり自身のスマホでカシャシャシャシャと連写していた。ぬかりはない。

「ちょっと、アキ! 胸!」

そんな八郎を見て、慌てて七瀬がアキの胸元を隠そうと手を伸ばすと、今度は七瀬が足を滑らせて顔面から温泉に突っ込んでしまった。

アキにも負けない水しぶきと共に、七瀬の可愛らしいお尻がアキの隣に並んでカメラに収められる。

「七瀬ちゃん、ナイスアドリブ!」

思わず声を上げる八郎。もはや映画の撮影では無く、二人のあられもない姿を撮るだけが目的になりつつある。

しっかりと寄りのシーンも収めると、思わずガッツポーズをしてしまった。

「ぷはぁっ! 痛ったぁ、何なのよ、もうっ!」

怒りを抑えきれない七瀬は、起き上がると思いっきり水面を叩いた。その勢いで、重くなった衣装がずれ落ちて、七瀬の胸があらわになる。

そんな予想外のアクシデントに、思わず八郎が手を伸ばしていた。それは、完全にずれ落ちてしまいそうな衣装を押さえようとしたのか、それとも愛しの七瀬の胸に思わず手を伸ばしたのかはわからない。

けれど彼の表情は鼻の下が伸びきった変態の極みであり、決して邪な考えなどない、とは言い切れないものであった。

そして、彼は宙を舞った――。

その出来事が、彼にとって運命の分かれ道であったということは、後に彼自身が語った事である。

人生とは何が起きるのかわからない。

彼を愛した無二の親友にして弟子でもある二郎の言葉である。

「はあ……ほんと、ひどい撮影だったわね」

いまだ怒りが収まらない様子の七瀬をまあまあと宥めながら、アキは久しぶりの実家の温泉を堪能していた。

昼間、びしょ濡れになった衣装のままでは撮影は難しく、続きは衣装が乾いてからということで一行はそのまま撤収となった。温泉宿の連なる渋温泉街にはコインランドリーなんてあるはずもなく、撮影は翌日へ持ち越しだ。

七瀬にぼこぼこにされた八郎は約束どおり、宿はアキの実家と七瀬の実家の二手に分かれて予約をとっていた。「七瀬ちゃんのご実家や、失礼するわけにはいかんでな」と何やら八郎は入学式で着ていたようなスーツで七瀬家の旅館へ泊まりにいったが、事前に七瀬は「勘違いのエロ野郎が来るだろうから適当にあしらっといて」と家族に頼み、自身はアキの旅館へ泊まりに来ていた。

予約されていたとはいえ久しぶりの大人数のお客さんに、さすがに祖母と数名の従業員だけでは手が足りず、アキと七瀬も作務衣に着替え、クラスメイト相手に接客をした。勝手知ったる我が旅館とはいえ、人手不足でてんてこ舞い。作業から解放されたのは夜も大分更けてきてからだった。

「それにしてもハルばあちゃん、相変わらず容赦ないよね。よその家の子でも一通りの接客はできるだろって、使えるものはがんがん使うスタンス、私好きよ」

「あはは、おばあちゃん七瀬のこと褒めてたよ。手伝いありがとね」

「いいのよ。困ったときはお互い様でしょ」

小さな頃から行き来していた温泉へ久しぶりに浸かり、穏やかに微笑む七瀬。上気した肌がほんのり色づいて何ともいえない色香がある。

困ったときはお互い様。聞き慣れたフレーズに、アキは思わず笑みを零す。

何度その言葉を繰り返してきただろう。アキが困っていたら助けてくれるのはいつだって七瀬で、七瀬が困っていたらアキはどんな時でも助けにいった。小さい頃から、ずっとそうやって助け合ってきた。

「思い返せば、あんたとも長い付き合いよね。もう18年も一緒なんだっけ」

同じ事を七瀬も考えていたようで、感慨深げに呟いた。

生まれたときから、とまではいかないが、家が近いのもあって、物心つく頃には一緒に遊んでいたような気がする。けれど二人と同じ年頃の子どもは何人かいて、遊ぶときは大概みんなで遊んでいたから、アキと七瀬はそこまでお互いを特別だとは感じていなかったように思う。

――アキの母親が亡くなるまでは。

「そうだねぇ。男子にいじめられてたわたしを七瀬が助けてくれてから、かな?」

アキの母親が病気で亡くなり、意気消沈した父親が失踪してからはおばあちゃんがアキを育ててくれたのだけれど、周りの子どもは『自分と違う』ことに敏感だ。

大人たちはまだ小さいアキを気遣って、本人のいないところで「可哀相だ」と噂する。それを聞いた子どもたちは幼い故に善悪がまだわかっていなかった。「家族がばーちゃんだけって変なの!」と無邪気にアキを追いつめることもしばしばだった。

母親が死んでしまったことはアキにはどうすることもできないことだ。父親がいなくなったのも、アキのせいではない。けれど周りの子どもには、そんなこと関係がないのだ。『自分達の家には母親も父親もいる』が『アキの家にはおばあちゃんだけ』、それが事実で、全てだった。

だからアキは小学生の頃、クラスメイトの男子生徒に親がいないことをからかわれては泣いていた。それを助けてくれたのが七瀬だった。

『いい加減にしなさいよ、親がいないのはアキのせいじゃないでしょ! あんた達の親だってねぇ、いつかは死ぬのよ! あんたの親が死んだのはあんたがいい子にしないからよってからかわれたらどう思う!? 相手の気持ちを考えてから話しなさいって、この前、道徳の授業で習ったでしょ! 自分がやられて嫌なことは相手にもしちゃダメなの、わかった!?』

やんちゃな男子生徒数人を前に仁王立ちする七瀬は、それはもう格好良かった。七瀬が男なら、確実に惚れていたと思う。

「あいつらはからかっただけって言ってたけど、受ける側が嫌だと思ったらそれはもういじめなのよ」

男って小さい時からバカばっかりなんだから。

そう続けてフンと鼻を鳴らした七瀬は本当に頼もしい。

「18年かぁ。いろいろ喧嘩もしたよね」

「アキが変なところで頑固だからね」

七瀬の言葉に、しみじみと昔を思い返していたアキは聞き捨てならないと頭を振った。

「七瀬だって怒りっぽいし、怒ったらわたしのこと完全に無視するじゃん! 声かけたら逃げるし!」

「ムカついてたら話したくないでしょ? アキだって本当に怒ったら、近寄るなオーラ出すじゃん」

「そ、そんなオーラなんて出してないよ! でもわたしたち、喧嘩したら仲直りするまでほんっとーに時間かかるんだよねぇ。他の人と喧嘩してもすぐ仲直りできるのに。なんでだろ?」

「それだけ気を許してるってことじゃない?」

ぽろりとこぼれた本音に七瀬は慌てて口を押さえた。恥ずかしいから言いたくなかったのに、つい口を滑らしてしまった。その様子に、アキがきらきらと目を輝かせる。

「え、七瀬わたしに気を許してくれてるの!? ほんとに!?」

「うるさいな、しつこく食いついてくるのやめてよ!」

「顔赤いよ七瀬ぇ~」

「あんたん家の温泉が熱すぎるの!」

「うそうそ、ここのお湯と七瀬の家のお湯と、そんなに温度変わらないもーん! もう、恥ずかしがりやなんだからぁ!」

「うるっさい、もう出る!」

「ええー、じゃあわたしも出るよぉ」

「真似しないでよ!」

「一人で残るのヤダもーん! ね、出たらコーヒー牛乳飲もうよ。おばあちゃんが用意してくれてるんだぁ!」

じゃれついていたアキが湯から出て、楽しそうに脱衣所へ足を進める。その後姿を見ながら、七瀬はぽつんと呟いた。

「……助けたのは私じゃない。あんたよアキ」

今でも鮮明に思い出せる。七瀬を庇うように向けられた小さな背中、怒りのあまり滲んだ瞳、ぎゅっと握られた拳。七瀬を助けるためだけに、自分よりも年上の人に声を荒げた心の強さ。

「あのときから、私はあんただけを信じてるのよ」

呟いた言葉は風に乗って消えていく。届かなかったが何かを察したアキは不思議そうに振り返った。

「何か言った?」

「ううん、なんでも!」

つづく