【小説】東京テルマエ学園 第1章11話 「新宿サンバカーニバル編」前編

「さて皆の衆」

その週最後の講義が終わり、ゆかり女史が資料を閉じながら教室を見回してそう言った。緩みかけていた教室の空気が再び固まった。ゆかり女史がそんな呼びかけ方をして、これまでいい話が出たことはないのだ。

「ちょうど全クラス揃っての講義だから、ここで発表しておくわ……少し手間取ってしまったけど、第一回東京テルマエ学園祭の詳細が決まったの」

教室がざわついた。正式な生徒会というものがないテルマエ学園では、ほとんどのことがトップダウンで決定される。生徒の要望で実現したのは今のところ部活についてのことだけだった。

「日程は9月最終日曜日。場所は新宿中央公園水の広場」

「はあ?」

「へ?」

「なんで……」

講堂に疑問と当惑のさざ波が広がった。

「当日はそこでフリーマーケットも行われます。当学園は派手な躍りやパフォーマンスでそのイベントを盛り上げるのよ。それが今回のミッションよ」

「えぇぇぇぇーっ?」

悲鳴に近い大合唱が起こった。またもやミネルヴァ学園長の迷惑な思いつきに違いなかった。

そもそも、学祭というのは学生主体で企画を考えるのが普通であって、学園側から指示されるようなものではない。それに今回は学祭が主と言うよりは、イベントに乗っかって東京テルマエ学園を地域の方々に売り込むのが目的といったところなのだろう。

とにかく、この破天荒な学園に対し、苦言苦情を申し入れたところで無駄なことである。何もかもが普通ではないのだから。

「ただし今回の学祭は特別にSS扱いで、ポイントが付きます」

また講堂が静まりかえった。

「エスエスって何ですかー?」

女子の声が上がって、ゆかり女史が頷いた。

「最初から説明するね……教室での授業や試験で科目ごとに単位が貰えるでしょ? ポイントはそれと同じ。郊外実習には時間単位にプラスしてポイントが付くようになるの……まあボーナス単位ね」

ゆかり女史はマーカーを取って大きなホワイトボードに書き込んだ。

「あんたたちが受ける授業は年間800時間。35時間で1単位だから一年全部授業を受けたら22.85単位、だから2年で45.7単位」

ゆかり女子はマーカーを赤に持ち替えた。

「入学案内にも書いてあるけど、卒業に必要なのは一般課程と専門課程合わせて53単位。座学だけだと7.3足りないからそれを実習で稼ぐ、できの悪い人は補講で稼ぐ。ここまでいい?」

そこここで肯定の声が上がった。

「変わるのは実習で大きく稼げること。寮から現地集合場所までの移動、それぞれに出発時間と到着時間が決められるの。ツアコンと現地で合流したらタイムチェック、クリアしたらリエゾンポイントが1付く。早く着いても良いけど、30分以上遅れたらポイントなし」

講堂がざわついた。

「研修先に入ったらスペシャルステージ開始。これがSSね」

「WRCラリーやないか」

八郎が渡に囁いた。

「きっと学園長の思いつきだぜ」

渡が頷いて言った。

「SSに普通の業務以外に何かが加わっていた場合は、スーパーSSとして獲得ポイントが増えることになっているからね。当たったクラスは頑張るのよー、たぶん各クラス1回はスーパーSSに当たるはずだから」

生徒達は不安でざわついた。

「そしたら先生……2年の途中で卒業単位取れちゃうこともあるんですか?」

「そのとおり」

ゆかり女史はマーカーにキャップをして生徒たちに向き直った。

「単位取得のめどが付いたら、自分で不要と思った講義は出なくても良い。アルバイトするなり興味のある講義を聴講するなり、好きにすれば良いのよ」

また講堂がざわついた。

「それから、学祭ではこれまで学んだことを生かしてお客さんを集めること。集客目標は1クラスにつき500人」

「ご、500人!?」

「せ、先生。桁間違ってませんか?」

「――ああ、そうね。間違えたわ。1クラスにつき5000人ね。全部で3クラスだから、来場者数15000人、簡単でしょ? 都内有名大学の去年の学祭の来場者数は約18万人。それを思えば楽勝じゃない」

「有名どころと比較するんはおかしいやろ! そんなに集められるわけないやんか!」

「新宿区の人口は約30万。どこもおかしいことなんてないわ。むしろ少ないくらいね」

「5000人集められなかったら、どうなるんですか?」

「……ノルマ達成できなかったクラスは、ポイントがつきません」

「ブラック企業のそれですやん」

無茶苦茶もいいところである。

あちこちから不満の声が上がったが、ゆかり女史が教壇を強く叩くと、それも途端に静まった。

「とにかく、何をやるか、どうやってお客を呼び込むか、それぞれクラスでしっかり話し合って決めなさい。以上、解散!」

大講堂フロアのエレベーターホールでは、あちこちで学園とゆかり女史への呪いの声が立ち上っていた。ほとんどの生徒が食堂へ向かおうとしているので、エレベーターホールはまだ混雑が続いている。

ようやく食堂に着いた頃には、席はほとんど埋まっていた。空いた真ん中あたりの席を取って、皆で頭を寄せ合う。

「学祭かあ。派手なパフォーマンスって何すればいいんだろ」

萌はちらっと汐音を見た。こういう時こそ、チアリーディングの出番だと思ったのだ。萌の視線を受けて汐音は何か思いついたようで、あっと声を上げた。

「リンボーダンスとかどう? 八郎が火を噴いてぇ、渡が半裸でドコドコ太鼓叩いてる間に皆でバーをくぐるの」

「汐音をあてにしたあたしが馬鹿だったよ……」

「え? 何で。いいじゃんリンボーダンス。練習しなくてもノリと勢いで何とかなりそうだし。バーくぐったら『リンボー!』って叫べばいいんでしょ? 余裕じゃん」

「あー、汐音はいいかもしれないけど、アキとかどう。できると思う?」

話を振られ、アキは首を傾げた。

「バーくぐればいいんでしょ? できると思うよ。こう、芋虫みたいになっていけば」

それは最早リンボーダンスではない。ただの匍匐(ほふく)前進である。

七瀬は呆れて言葉も出なかったが、汐音には受けたようだ。

「いいじゃんそれ。新しくて」

「いや、良くないでしょ」

「冗談抜きで、チアリーディングとかどうなのよ。あんたの特技でしょ」

優奈に言われ、汐音はようやく思い至ったようだ。途端にその目を輝かせた。

「そっかー! じゃあ皆でチアやる? 男子もいるし、アクロバットな技とか決められそうだし、絶対盛り上がるね。うち教えるけぇ、皆夏休みはここでみっちり強化合宿だね」

「合宿してまでは、ちょっと……」

萌が尻込みすると、涼香を始めとした地方組も難しい表情を浮かべた。

大体の生徒は、夏休み実家に帰省する予定なのだ。地方組ともなれば、長期の休み以外は帰る暇もない。

「でも、しっかり練習しないと危ないよ。基本のスタンツくらい出来ないと。中途半端な演技ほどつまらないのってないし」

汐音にしては珍しく食い下がった。素人がやるには、それほど危険な競技なのだろう。

「ちっと待って。ないがなし。合宿するかどうか、チアでよかとか、今ここで決められもはんね。一度クラス全員でかたいよもんそ」

チアでいいか今決められないから、クラスで話し合おうという圭の提案に一同は頷いた。

「そうだね、皆の意見聞かないとね。とりあえず候補としては、チアリーディングと、リンボーダンス?」

そして、寮に戻ってから男女でそれぞれ多数決を取ることになった。男子の方は八郎に仕切りを任せ、翌日結果を聞くことにした。

ちなみに、女子の方は圧倒的にリンボーの支持が多かった。

だが、あくる日。C組に激震が走る。

A組がリンボーダンス、B組がチアリーディングの演目で学園側に届け出を出したのだ。

どちらもC組の候補にあがっていた演目で、見事に被るなどそうあるはずもない。

「そんな偶然ってある?」

アキが七瀬に囁く。七瀬は肩を竦めた。

「さあ。他のクラスにも、汐音さんみたいなチアリーダーでもいたんじゃないの?」

それにしても、決まるのが早すぎる。クラス内で騒めきが起こった。

学祭の発表は昨日。早く決めて練習に入りたいという気持ちも分からなくはないが。

「さぁて、どうするかねェ。すっかり遅れを取っちまったけど」

「AもBも、集まってる様子なかったのにいつ決めたのォ! てゆーか、これってパクられたんじゃないの!?」

汐音は大荒れである。気持ちとしてはやはり皆でチアリーディングをやりたかったのだ。八つ当たりするかのように隣の八郎をぽかぽかと殴った。

「まさかあんた、お金欲しさにリークしたんじゃないでしょうね!」

「してへんわ! ワイがそんながめつい真似するわけないやろ!」

「八郎ががめついのはエッチなことが絡んだ時だけだ。言いがかりはやめておけ」

渡がキメ顔でフォローするように言ったが、残念ながら、疑念に追い打ちをかけただけである。

圭が真面目な顔で唸った。

「学祭は9月、8月は夏休んに入っで、練習すっ時間はあんまいなか。そなっと、ノリでいけんかなっパフォーマンスがよかね」

「ただ派手なだけじゃなくて、お客さん集めないと……なんでしょ?」

「ワタシ、呼ビ込ミ得意ヨー」

ハンがひらひらと手を挙げた。

「マンゴローブママのお客サン、ワタシがオ願イスルと来ルヨ。大体ネ」

マンゴローブとは、新宿二丁目のオカマバーのママのことである。

ハンはそこでアルバイトをしていて、常連客に随分と可愛がられているのだ。オカマバーにニューハーフはありなのかといった疑問はあるが、働いているところを見ると別段問題ないのだろう。稼いだお金はバンコクの実家に仕送りしているらしい。

何にせよ、オカマバーで宣伝したとしても、目標の5000人には程遠いわけだが。

「まあ、宣伝は後で考えるとして、何やるかが問題だよね」

「お客サンとワタシ、デスマッチスルー? リング作って、ファイッ!」

「いや、それアウトだから」

美少女とプロレスが出来ると宣伝すれば全国の紳士の皆さんが大挙してやってきそうではあるが、一体何人病院送りになることやら――というわけで、即却下になった。

「いっそのこと、さ。学祭の日だけ特別に、フリーマーケットで買い物をしたお客さんを対象に、露天風呂無料開放するとか、どう? お風呂だけじゃちょっと弱いから……学食も解放して、一食分だけタダで食べられるとか」

七瀬の提案に皆が唸る。

「それは確かにいい考えかもしれないけど、学園の施設を使うってそもそもありなの?」

「近隣住民の方々に、この学園は怪しいものではありませんって知ってもらうチャンスなんじゃない?」

外見がただでさえ怪しいのだから、中身は普通だとアピールしておかねば、いつか通報されるのではないかと気が気ではない。

何より、食事は美味しいし温泉もあるし、休憩場所としてはもってこいで、もっと流行ってもいいはずなのだが一般客の出入りは芳しくない。

都心のど真ん中に出来た古代ローマ神殿を、怪しまないわけがない。

「七瀬の嬢ちゃんの意見、いいと思うけど学園側が何て言うかねェ」

「大体、ゆかり女史の指示は派手なパフォーマンスで盛り上げろ――でしょ? 七瀬のは違うんじゃないの?」

優奈の尤もな指摘に、七瀬は言葉を詰まらせた。

また手詰まり状態となった。

「もう来週から夏休みだし、早く考えないとねー」

「皆、実家に帰っちゃうもんね」

「出し物っていつまでに考えろって言ってた?」

「期限は言われなかったと思うけど、他のクラスのが決まってるんだし、早い方がいいんじゃないの?」

あれこれと意見は出たが、肝心な出し物に関してはまるっきり何も出ない。

他に有益な案が出ないまま、夏休み突入となった。

休み中に寮に残ったのは、C組では優奈と穂波、それからハンと渡だった。

寮の共同スペースに集まった優奈と穂波、それからハンは、誰かが忘れていったポテチを食べながら雑談していた。

「渡も帰らなかったみたいだけど、あんた何か知ってる?」

穂波は首を傾げた。

「さぁてね。あいつ、どっかのホテルチェーンの御曹司だっけね。親となんかあるんじゃないの? 気になるなら、優奈聞いてきなよ」

「……いや、遠慮しとく」

誰しも知られたくないことの一つや二つある。優奈はそれを理解していた。それに、他人の事情に首を突っ込みたくもない。

「オンゾ、ナニ?」

ハンは知らない言葉だったらしい。

「良いトコのお坊ちゃんってこと」

「良いトコ、ドコ?」

「ハヤセ・シティトラストってとこ」

「はあー、住んでる世界が違うわ……」

優奈が肩をすくめながら言った。

八郎がよく金持ちぶっているが、ハヤセと比べたら、『なにわ温泉』は個人商店レベルである。資本金の桁が違う。

「――それだけ大変なことも多いんだろうけど」

高級クラブばりのキャバクラでアルバイトしている優奈は、色んな客を相手にする。仲には年収何億と稼ぐ客もいるし、渡の家庭が普通ではないことくらい、簡単に想像がついた。

「バイト行テクルねー!」

いつの間にか準備をしていたらしいハンが、慌ただしく出かけて行った。残ったのは穂波と優奈の二人だけだ。

「しっかし、皆いないと静かだねェ」

「清々するわ。バイト前うるさくて眠れないなんてこともないし」

「あーあー。可愛くねェ。寂しいって素直に言えねェの?」

「はぁ? 馬鹿言ってんじゃないわよ。寂しいのはあんたじゃないの?」

優奈はやけくそのようにポテチを鷲掴みにして頬張り、むせた。冷蔵庫に残っていた誰かのオレンジジュースを勝手に開けて、口の中に流し込む。

穂波は頬杖をついて呟いた。

「学祭、どうすっかねー」

「来場者5000人……無理でしょ。付け焼刃の半端なパフォーマンスじゃ、そんなに集められっこないわ。アイドルじゃあるまいし」

「アイドルねぇ……。いっそのこと、ライブでもやる?」

「ライブって、あんた。歌って踊るあれのこと言ってんの?」

ポテチ一袋が空になり、優奈はオレオの箱に手を伸ばした。

「それこそ練習しないと無理でしょ」

「そうなんだよなァ。プロ並みに歌と踊りが上手いヤッコさんがいればいいんだけど……」

「そんなヤツ、どこにいるのよ」

「ンなの分からねぇさ。お手上げだぃ!」

穂波が両手を挙げたまま後ろに倒れこんだ。優奈がテレビをつけると丁度天気予報が始まった。

「あ……また台風来てる。日本縦断コースだわ」

小笠原付近で進路を変え、紀伊半島のあたりに上陸して東に向かってくるらしい。

「明後日あたり東京来るよ、これ……」

2人とも、しばらくの間沖縄で荒れ狂う風と波の画像を見ていた。

玉子屋旅館は、高湯温泉で一番大きな温泉宿だった。古さでは信生屋旅館に負け、部屋数ではハイランドホテルに負けるものの。その温泉は露天や足湯など7種もあって宿全体の敷地は高湯の中で最大だった。

そんな大旅館の娘なので、当然、白布涼香は「お嬢様」である。だが昔からの家訓で、未婚の家族は男女の別なく従業員と一緒に働くことになっている。

よって涼香は、実家に帰ったその日から掃除や厨房の手伝いに追いまくられていた。朝は5時起きで厨房に向かい朝食の準備、慌ただしく朝食を食べたら食堂でお客様への配膳と片付け。

お立ちになるお客様の荷物を運んで、お見送りをしたら部屋の掃除と片付け。お客さんは誰一人として涼香がここの娘だとは思わないだろう。

昼食後のわずかな休憩時間、涼香は高校時代の友人に連絡を取った。

「もしもし……あさちゃん? 涼香だぁ」

「ああー! やっと帰ってぎだんだー!」

何をするにも一緒だった一番の友人、財田阿左子も大学の夏休みで戻ってきていた。帰省してきている友人たちの話をひとしきりしたあと、阿左子が言った。

「あー涼香。真理子先輩、覚えてる?」

いきなりその名を出されて、涼香は胸が苦しくなった。

「もちろん、覚えてるよぉ」

動揺が声に出ないように、涼香はひとつ息をついてから答えた。

「駅のエスパル寄ってみたら、今日バイト出ててぇ。みんな帰ってきてるなら、久しぶりにバンドしねーがって?」

「えー?」

涼香は高校の3年間、部活でバンド活動をしていたのだ。佐藤真理子は1年上で、リハーサルスタジオが入っているビル会社の娘だった。だから涼香たちのメンバーは学校の器材がなくても練習ができたのだ。

真理子先輩は2年から卒業までメインボーカルで、ずっと全メンバーの憧れを集めていた。

夕方近くになって、阿左子からラインが入った。

『練習スタジオが空いているのは明日だけ。みんな来るよ』

怒られるのを覚悟で父に相談し、いい顔はされなかったが休みをもらうことができた。

その夜、入浴を済ませると涼香は部屋の隅に立てかけてあるギターケースを開けた。

フェンダー・ストラトキャスター。半世紀以上も昔に父が苦労して手に入れ、兄が使ったそのお下がりだった。

ケースから出したギターのボディを念入りに拭いた。東京に出る前にケースの隙間という隙間に乾燥剤を押し込んでおいたのだ。

ネックの反りを確かめ、弦を締め直した。チューナー、これも兄からのお下がり。調弦してから、涼香は下着にTシャツ一枚の格好でギターと懐中電灯を抱えて押し入れに潜った。押し入れの下段は全面にスポンジのマットを貼り付けた、涼香自作の練習スタジオだった。

ヘッドホンアンプを使うので部屋の外まで音が漏れるはずはないのだが、弦を弾く音が長い時間続くのでどうしても気が引けてしまう。

アンプの電源を入れ、音漏れがしないようにヘッドホンをしっかり押さえた。左手が自然に動いて、あるコードを押さえた。不吉な和音が響いた。

『ルート、3rd、7th、#9th』ジミ・ヘンドリックスコードだ。

不安を誘うような音色に、涼香の背筋を冷たい快感が走った。

涼香が受け取ったお下がりはギターだけではなかった。アンプとエフェクターの機材一式に、膨大な量のレコードと楽譜。楽譜と言っても手書きで、何と兄がレコードの曲からリードギターのパートだけを譜面に書き落としたものだった。

レコードは全て1970年から80年代のもので、そのほとんどがロックだった。

練習の仕方までは教えてもらえなかったので、涼香は兄の古いステレオまでもらい受けて部屋に運び込み、レコードを聞きながらたどたどしく音を追いかけた。

学校と実家の手伝い以外の時間は全部ギターの練習につぎ込み、ギターを抱いたまま寝てしまったことも一度や二度ではなかった。

そして、1年もたたないうちに楽譜は不要になった。初めて聞く曲でも、涼香は3回聞けば最初から最後まで演奏できるようになってしまったのだ。

最初はアルフィーの高見沢俊彦に憧れてギターを手にしたのに、涼香はその前にエリック・クラプトンとジミ・ヘンドリックスの音を身につけてしまった。

福島の山の中は東京とくらべてかなり涼しいが、押し入れスタジオ中は30分もしないうちに絶えられない暑さになってしまった。

「うええ……死ぬぅ」

汗まみれで這い出した涼香はヘッドホンを外し、顔と胸元をタオルで拭った。

「ふああ……」

大きなため息を着きながら床に寝転がり、しばらくの間ぼんやりと天井を見上げていた。

「真理子先輩は、まだ……わだすのこと、覚えてるんかなぁ……」

まだ頭の中に充満している音符とコードを押しのけて、一人の女性を思い出そうとした。

卒業式で先輩を見送ってから、もう1年半近く経とうとしている。大学には行かず、実家のビル管理会社を手伝いながら時々好きなショップのアルバイトもしているとはバンド仲間から聞いていた。

涼香は寝転がったまま横向きになり、少し体を丸めた。

ギター練習後は昂る。バンドをやっていた時は相手がいたが、ひとりの時は自ら慰めるしかない。ピックを持つ手が自然と下へと伸び、快楽の波に涼香の背中がぴくんと震えた。

脳裏に過るのは、同じクラスの温水アキの姿。

天然で明るくて前向きで、愛くるしい姿で、ぎゅっと抱きしめるともちもちしていて、可愛い。可愛い。可愛い。アキちゃん。

だが涼香はアキの一番にはなれない。

アキの隣にはいつも当たり前のように、星野七瀬がいるのだ。

七瀬はきっと、アキと深いところまでいっているのだろう。涼香がしたくとも出来ないようなことをしているに違いないのだ。それを思うと胸がちりちりとして苦しい。

アキの方も七瀬を頼りにしていて、涼香が思うように距離は縮まらない。もっと仲良くなれたら、いつものように色んなことが出来るのに。

「んっ……あう……アギちゃ――」

濡れ始めたそこを刺激し、めくるめく妄想を繰り広げる。

そうしているうちに、気持ちの昂りは収まっていった。

翌朝、涼香は睡眠不足のままギターを背負い、バスを待つことになった。手に提げたバッグにはエフェクター(音響効果機)が3台という重装備。

玉子屋旅館前に止まって福島駅に近い大原総合病院へ行くバスは一日3往復で、10時に病院へ向かう便が始発。帰りは病院前を午後4時に出るのが最終だ。本数が少ないバスなので、こんな田舎にもかかわらず結構座席は埋まっていた。

「すまねぇ、通ります」

涼香は乗客にギターケースをあてないように、横向きに通路を歩いて一番後ろの座席に座った。ほとんどの客は福島駅西口で降りてしまうので、変なところに座るとケースが邪魔になってしまう。幸いなことに、最後部の座席には女性が一人いるだけだった。

練習スタジオの近くのバス停まではほぼ1時間だった。バスが動き出して数秒で涼香は寝落ちた。

大町停留所のアナウンスが流れると降車ボタンが押された。バスが停まり、涼香も慌てて降り、『サウンドスタジオIB』と看板が出ているビルに入る。

風が急に強く吹き付けてきた、静岡に上陸した台風が関東地方に到達した影響だろう。練習を終えて帰る頃には雨が降り出していた。

「学校どう? 東京には慣れだ?」

真理子先輩が涼香の肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。固い指先が涼香の肌をなぞる。涼香の肩がぴくんと跳ねた。

「まあ、それなりに?」

「あっちでもバンド続げでるの? ほら、サークルとかで」

「……皆わだすがバンドやってだって、知らねぇがらぁ」

「涼香が凄いって、皆知らねぇんだ」

真理子先輩はからっと笑った。

涼香はその笑顔に胸が締め付けられる。ほんの数年前も、バンドの練習後、真理子先輩は涼香に同じ笑顔を向け、肌を重ねたのだ。

それも一度や二度ではなかった。

その場の雰囲気に流されてなのか、涼香が仲良くなったバンド仲間は、必ずと言っていいほど涼香とそういう関係になった。だから、仲良くなれば身体の関係を持つのが常識なのだと考えていた。

真理子先輩との関係も、そうだった。

途端に真理子先輩の匂いや感触が過る。

それを振り払うように首を振ってから、涼香は苦笑を浮かべた。

「凄くねぇ。東京で通用するがどうが、分がらねぇし。クラスにはもっと凄い子が沢山いっから、わだすの出番はあんまりねぇ。ギターもたまに触るくらいだし……」

俯く涼香に真理子先輩が気合を入れるように背中をばしっと叩いた。

「もしかして、音楽、嫌いになったの?」

「そだことねぇけど……」

「そんじは、うぢらの代表どして、胸張って東京で頑張ってぎらんしょ」

「真理子先輩……」

「おめならやれるさ」

真理子先輩が言うのなら、そうなのかもしれない――涼香は思った。

つづく