【小説】東京テルマエ学園 第1章9話 「驚くべきキャバクラ実習体験編」後篇

「いらっしゃいませぇ、萌でーす!」

テーブルで談笑していた若い男性が萌の声に振り返る。日に焼けた浅黒い肌の男性は、萌と目が合ってぽかんと子どものような表情になった。

「あ……」

萌の方も男性に気づき、驚いたように声を上げた。

「あっ、兄貴!?」

「萌!? おま、何でこんなとこにいるんだ!?」

「あ、兄貴こそ!!」

慌てたように立ち上がって萌と向かい合う若い男性――優奈はそれがプロ野球チーム、東京エンゼルス所属の平泉翔平だとすぐに気づいた。

ポジションはピッチャーだが、チームで4番を打つほどのスラッガーでもあり、今やプロ野球界の至宝といってもいいほどの2刀流の選手なのだ。

はっと何かに気づいた萌が肩をいからせながら翔平へつめ寄った。

「兄貴、今公式戦の真っ最中でしょ!? そんな時に水商売のお店に来るなんて不謹慎よ!」

「お前こそ、なんでこんなところで働いてるんだ!! ここ、キャバクラだぞ!? わかってるのか!?」

「エースがこんなところで遊んでるなんてスクープされたら、登録抹消されちゃうでしょ! そっちこそわかってるの!?」

「ここをどこだと思ってるんだ、子どもの遊び場じゃねーんだぞ! 男相手に、イ、イタズラとかされたらどーするんだ! 水商売で働くために家を出たわけじゃないだろ!!」

「イタズラって何! 大体キャバクラっておさわり禁止でしょ! 兄貴こそ、球団にもチームメイトにも家族にも迷惑かかるんだから、もうちょっと考えて遊びなよね!」

「――っ嫁入り前の女が気軽に男に媚び売ってんじゃねーよ!! なんかあったらどうするんだ!!」

「はあ!? 媚びなんて売ってないし! そーいうこと言う人がなんでキャバクラとか来んの! 意味分かんないんだけど!」

「ちょっと、二人とも……!」

「平泉くん、ちょっと落ち着いて」

ぎゃんぎゃんと言い争う兄妹を前に、同席の客達は、困惑した様子で顔を見合わせている。

「「これが落ち着いてなんていられますか!」」

二人共平泉である。声を揃えて返されて、同席の客たちはますます困惑する。

他のテーブルからはお客さんや先輩キャストの好奇や迷惑そうな視線が寄越される。ボーイが兄妹の間に入ろうとするが、二人は聞く耳を持とうとしない。

店中に兄妹の言い争いが響いて、奥のカウンターで全体の様子を見ていた店のマネージャーがさすがに黙っていられないと腰を浮かせようとした、その時だった。

パンパンパン、と大きな拍手が三度響いた。不穏な空気が一瞬で飛散する。さすがの平泉兄妹も我に返り、ここがどこなのかを思い出して口を閉じた。

「うちのキャストが、大変失礼をいたしました。平泉選手……ですよね? わたし大ファンなんです」

堂々とした様子で優奈がにこりと微笑んだ。

「わたしも同席させていただいても?」

気圧されるように平泉兄妹は頷く。優奈は猫のようにしなやかに翔平の隣に座った。

「それにしても、妹さんと仲がいいんですね。こんなところで喧嘩始めちゃうなんて。わたし、兄弟とかいないからうらやましいなぁ。もし平泉選手みたいなお兄ちゃんがいれば、わたしだって所かまわず喧嘩してみたいです」

「あ……」

店内を見回して、注目を集めていたことに気づいた二人は兄妹そろって頭を下げる。

「ご迷惑をおかけしてすみません!」

「取り乱しちゃってごめんなさい!」

優奈はさっと店内を見渡した。仕方がないなと呆れ、先輩キャストのトークで機嫌を直すお客さん達の様子にほっと息をつく。こんなことで店の評判を落としてしまったら、自分の地位すら危うくなる。

優奈はさりげなく翔平の顔を覗き込んだ。

「今日は後援会の皆様と親睦会ですか?」

慣れた手つきでグラスにお酒を作り、翔平に渡す。萌はちんやりとして優奈の隣に座って、呆けたように呟く。

「親睦会……?」

「そうだよ。公式戦もまだまだ続くんだ、最後まで応援してもらわないとな」

「そうだったの……ごめん兄貴。あたし、勘違いしちゃって……」

「いいさ。それで、お前はなんでこんなところにいるんだ?」

「大きな声では言えないんですけど……」

周りをきょろりと見渡して誰もこちらを気にしていないことを確認した優奈はそっと翔平に寄りかかる。翔平の耳もとへ手をそえ、内緒にしてくださいね、と前置きした。

「わたしたち、キャバクラ体験実習中なんです。ホステス学は温泉経営にも必要だって先生が」

テルマエ学生が体験実習に来ていることは、店長や一部のキャストにしか伝えられていない。学生であることは一種のステータスになり、知られると興味を持ったお客さんからの指名が入ってしまうからだ。それでは意味がない。

翔平は感心したようにうなった。

「へえ、そんな変わった授業があるんだな……」

「あたしは納得してないけどね!」

「でも、萌ちゃんすごいんですよ! 実習が始まる前はすねてたんですけど、お客さんのためにお酒を作る練習、ちゃーんとしてたんです」

「へえ、萌がねぇ」

「ちょっと、何ばらしてんの。恥ずかしーじゃん!」

「お酒を作るのって結構難しいんですけど、萌さんのお酒はお客さんに好評でしたよ!」

「ふぅん、すげーじゃん萌。ま、授業ならしょーがねえな、父さんと母さんには黙っててやるよ」

「わ、ありがと兄貴!」

「いいよ。それから、君も。ありがとうな」

「え?」

兄妹が仲直りするのを微笑ましく見守っていた優奈は、翔平に爽やかに笑いかけられてぽっと頬を染めた。

「俺の事情をすぐに理解して萌にそれとなく伝えてくれた。俺が心配してるの分かってて、萌の事情も教えてくれた。いつも殴り合うまでケンカが終わらない俺たちがこんなすぐに落ち着いたの、君のおかげだよ。店を騒がしくしてごめん。君はいいキャストだな」

「そんな……!」

「君、名前なんて言うの?」

「あ、まゆり――優奈です!」

本来キャバクラでは源氏名しか教えない。本名から色々と探り出され、トラブルになってはまずいからだ。しかし優奈、ちゃっかりと本名を伝える。もちろん下心からである。

翔平はそんな事情はつゆ知らず、優奈の名前をインプットした。

「優奈ちゃんは萌と同じ学校なの?」

「は、はい! 萌ちゃんとは仲良くしてもらってます!」

「で、俺のファンっていうのは、ただのリップサービス? それともガチ?」

方頬に手をついて訊ねる翔平に優奈はぐっと拳を握って答えた。

「ガチに決まってるじゃないですかー! この間の試合見に行きましたよ。あと少しで完全試合だったのに、まさかの9回でフォアボール出塁って。やっぱりあの場面、緊張しました? 球すっぽ抜けちゃった感ありましたよね。珍しく荒れてたし」

「お、よく見てんじゃん。やっぱパーフェクトかかってると緊張するからねー」

「打線が爆発したのもあって、結果的に勝ちだったからよかったですけど。投手としては打線の援護あると本当にありがたいけど、翔平さんの場合は打てるし走れるし、あの試合でも大活躍でしたよね。めっちゃかっこよかったです」

「あー。優奈って野球詳しいんだね。てか、野球やってたの?」

萌のさりげない言葉に優奈が不自然に固まる。平泉兄妹はそれに気づかず会話を続ける。

「女子野球かあ。いいね」

「そーだ。そしたら野球部とか作ったら? 九人集めないと駄目だけど、作るならあたし入ってもいーよ。ファーストくらいなら出来るんじゃないかな」

「お前、ファーストって結構大変だぞ」

「いやー、バッテリーほど大変じゃないでしょー。外野やるにしても、フライ上手く取れる気がしないし。で、優奈ピッチャーとかどう? 出来るんじゃない?」

黙り込んでいた優奈ははっと顔を上げ、ぎこちなく笑みを浮かべた。

「わたし、やったことないから。野球は見てる方が面白いし」

「そうなんだ。あーでも、あたし初めて優奈の趣味? 知ったかも。野球かーそうかー。じゃあ今度兄貴の試合一緒に見に行く?」

「初めて趣味知ったって何だよ。仲いいんじゃなかったのか」

「そこ突っ込んじゃダメでしょ、兄貴」

「でも残念だな。野球やったことある女子って貴重だし。野球観戦好きな子は沢山いるけど、競技人口は少ないから。興味あるならやってみない? 俺コーチとかするよ」

「えー。翔平さんがコーチしてくれるなら、やってみようかなぁ」

萌は首を傾げた。

優奈の様子があまりにもおかしいと口を開きかけた。

「優奈――」

「ところであんた、指名はどうなってるのよ」

遮るように優奈が問う。萌はそういえばと焦りだし、頭を抱えた。

「そうだ、あたし指名まだだった!」

「お兄さんから指名貰っちゃえば?」

「うっ……なんかズルくない?」

「他のお客様について、色々心配されるよりはいいんじゃないの? まあ、まだ喧嘩したりないって言うなら別だけど」

それはそれで困ると兄妹は頷いた。祥平がボーイを呼び、耳打ちする。

「モエちゃんご指名ありがとうございまぁす」

「俺、キャバクラで妹指名したの……? 背徳感がやばい……」

打ちひしがれる兄の背中を叩き、萌は親指を立てた。

「そういうお遊びだと思えば」

「思えるか!」

優奈はくすりと笑って席を立った。それから萌に聞こえないよう、翔平に耳打ちする。

「今度いらっしゃったときは、わたし、まゆりを指名してくださいね」

「そうさせてもらうよ。優奈――いや、まゆりちゃん」

祥平は白い歯を見せて笑った。萌は何だか分からず、どういうことだと兄に詰め寄るが翔平は適当にはぐらかすばかりだった。

翌日。

深夜にまで及んだ歌舞伎町キャバクラ体験のせいで体力も精神もボロボロの生徒たちは、まるで死んだように爆睡していた。

午前中のうちにケロっとして目を覚ますのはもともとそういう職場で働いていた者たちばかり。

それでもお昼を過ぎたころにはのそのそと布団から這い出すように目を覚まし始め、おやつの時間にはすっかりいつもの学園の姿に戻っていた。

「おはようみんな」

アキが共有スペースに顔を出したころには、もうとっくにみんな目を覚まして、それぞれの休日を楽しんでいた。いつもは部屋からあまり出てこない優奈が、珍しくソファに座っていた。

「ひどい顔……とりあえず顔洗って来たら?」

「えっ、そんなに?」

優奈が顔を引きつらせながら言うものだから、アキは慌てて洗面所に駆け込む。

鏡の向こうには、終電に乗るサラリーマンみたいな顔をした少女が立っていた。

「うわぁぁ」

リアクションを取る体力もなく、半端な声を上げたところで顔を洗う。

冷たい水で感覚を引き締めると、何となく身体のダルさもぴしっと締まったような気がした。

「優奈ちゃん流石だね」

アキが言うと、萌が同調した。

「そうそう、昨日はマジ助かった。優奈が色々フォローしてくれたからさー」

「別に。あのまま兄妹喧嘩されたらお店も大迷惑だったから」

元のつんけんとした優奈に戻っていたが、アキはこれまでとは違い、優奈をただ怖いとは思わなかった。昨日はそれほど頼もしく、かっこよかったのだ。

「私も何かで優奈ちゃんの役に立ちたいから、何かあれば言ってね! 恩返しがしたいから!」

「恩返しって、大袈裟ねあんた」

優奈は呆れた。よく分からない気迫にアキとの距離を取る。

だがアキの方は優奈に興味津々である。

「優奈ちゃんっていつからキャバクラで働いてるの?」

優奈はアキの顔をちらりと見てから視線を背けた。

「十八」

「高校卒業後からってこと?」

「……人の過去に、そんなに興味ある?」

皮肉げに笑い、優奈はアキを見つめる。

「昨日言ったでしょ。あんた達とは距離を置いてるって。昨日は仕方なく面倒みてやっただけだから。懐いてんじゃないわよ」

「うっ……でも、わたしはもっと優奈ちゃんと仲良くなりたいよ! お色気ムンムンでうらやましいし、いい匂いだし! 昨日の接客ほんとかっこよくて、もっと色々聞きたいし、お師匠様ってお呼びしたいよ!」

「わたしはあんた達と仲良しごっこをするためにここに来たわけじゃないから」

「でも、せっかくルームメイトになったんだから――」

「連帯責任取らされるときは協力してあげるけど、それ以外はほっといて」

はっきりとした拒絶の言葉に、その場の誰もが黙り込んだ。

優奈はその沈黙の中、部屋に戻っていった。

優奈が出て行った後の共同スペースで、膝を抱えた汐音がぽつりと零す。

「空気、重いね」

「皆、気ィ悪くしないでおくれよ。あいつも悪気があって言ったんじゃねェんだ」

「そういえば穂波って、優奈と仲いいんだよね」

「んー、まあ、腐れ縁ってやつ?」

「ずっと前から知り合いなの?」

汐音が訊ねると、穂波は頬をぽりぽりと掻いた。

「二、三年くらい前からね」

「なんだ、最近じゃん」

萌は首を傾げた。

「でも穂波の言うことは聞いてくれるよね。何だかんだ一緒に行動するのも穂波とだし」

「あー、それはね……。前にルームシェアしてたことあるから」

「へー。じゃあその時も、こんな感じだった?」

「まあね」

穂波は苦笑を浮かべた。

「そん時ぁ、もっと荒れてたね。男ンところ転々としちゃあ、トラブル起こして……あの顔につられて次々と男が寄ってくンだけど、それが原因で関係が拗れンだ。あいつも男を手玉に取っちゃあ、愉しんでた」

「なるほどー」

「キャバクラで働きだしてからは、少しはトラブルが減ったかな。キャバ嬢ってのは、そういう対象に見られやすいけど、結局誰のモンでもねェから」

――穂波はぽつりぽつりと優奈と出会った当時のことを話し出した。

『さあ、試合は九回の表、バッターボックスには四番キャッチャー斉藤。本大会ではホームラン五本の記録を持つ強打者ですが、今日は一本もヒットがありません!』

『ピッチャーの源口、いつになく球が走ってますねぇ。スライダーにも切れがあります』

『女子選手とは思えない速球を投げます、ピッチャーの源口。ストレートとスライダーを織り交ぜた投球内容にバッターも翻弄されています』

『あの速さでは、ボール玉でもつい手が出てしまいますね』

『驚異の奪三振率でここまで浜松商業に出塁を許していません。このままパーフェクトゲームとなってしまうのか。さあ、注目の対決です』

キャッチャーのサインはインコース高め。カウントはツーアウト、ノーボールツーストライク。ここで相手が見送るのは考えにくい。

優奈は頷いた。

マウンドで両手を大きく振りかぶり、足を高々と上げる。踏ん張って腕を鞭のようにしならせ、ミットめがけて球を投げる。ボールは相手の胸元を抉るように飛んでいき、バッターは身体を仰け反らせる――はずだった。

球速は130㎞、そのピッチングは男子選手を唸らせるほどのもの。それが飛んでくるのだ、怖くないはずがない。

あっという間もなく高めに入った球は、バッターボックスに立った選手の顔面に直撃した。

『デッドボール!』

そのコールに、優奈の頭の中は真っ白になった。

バッターボックスでうずくまる選手、騒めく場内、集まってくる人の波――優奈はそれらを呆然と眺めている。

野球人生の中でデッドボールを当ててしまったことは何回かある。けれど、首より上にあてたことはない。

激しく動揺した。

それからの投球内容はひどいもので、あとアウト一つで勝ちというところなのに走られ放題の打たれ放題、暴投はするわ、一塁カバーに行ってエラーするわと散々で、監督がピッチャー交代の指示を出したのは五失点してからのことだった。

結局、その試合は負けた。

心身ともにボロボロだったが、チームメイト達は一応、『優奈は悪くないよ』とフォローしてくれた。

だがそれも、その場限りの言葉だった。

SNS上では、女子野球静岡県大会決勝でのデッドボールが話題になっていた。

ピッチャーはわざと顔面にデッドボールをくらわしたんだとか、キャッチャーの指示を無視して投げたとか。ガセネタが次から次へと流された。

果ては『ピッチャー戦犯』『女の顔にデッドボールかますとか最低』『当てても謝らなかったクズ』など、目にするだけで心に突き刺さるような言葉が書き込まれ、決勝戦に関する情報が出るたび大炎上する結果となった。

どんな顔をして部活に出ればいいのか分からなくなった。

退部を決断するのにそう時間はかからなかった。

エースとしてチームを引っ張ってきて、優奈が抜ければチーム力が大きく落ちることは分かっていたが、マウンドに立っても、もう以前のような球は投げられなくなっていた。投げられたとしても球威は落ち、キレのない棒球だ。

優奈の持ち味は死んでいた。

また、顔に当ててしまったら――そう思うと手は震え、思うように投げられないのだ。

――イップスだ。

退部を決断し、後ろめたさを感じながら誰もいない部室に荷物を取りにいくと、練習を終えてグラウンドから戻ってくる皆の会話を聞いてしまった。

『つーか、優奈マジで辞めるらしいよ』

『まあ正直、優奈一人いなくても困んないよね。あいつは一人でチーム背負ってるつもりだったみたいだけど、何様だって感じ』

『元々うちのエースって藤波先輩でしょ。それを優奈がさ――』

『てか、あの噂ってマジだったの。おじさん達とヤッてエースになったって』

『あーそれ、バッテリー組んでた××が言ってた。××って藤波先輩とずっとバッテリー組みたかったのに、あいつが――』

『いいよねビッチは。男に足開けばエースになれるんだから』

『新情報、SNSにあげといていい?』

『おー、いいね。派手に燃やしときな』

SNSの情報はすべてチームメイトが書き込んでいたのだ。

しかも、一番優奈を叩いていたのはバッテリーを組んでいた相手だ。

名前ももう覚えていないが、彼女とは一番仲が良かった。優奈がどれほど努力して、チームのエースになったのか彼女は誰よりも分かっていたはずだ。

あのデッドボールだって、わざとじゃない。

キャッチャーの指示通りの場所に投げ込んだのだから。

だがキャッチャーは、優奈が勝手に投げたと言った。指示したところとは全然違う、いつも首を縦に振らない、厄介なエースだったと書き込んでいたのだ。

――聞き入っていた汐音は眉をひそめた。

「うーわ、陰湿。こわーい」

「優奈ちゃん……辛かったよね」

「てか、その状況なら絶対に鉢合わせるじゃん。あの優奈が黙って引き下がったとか信じらんないよ」

「もちろん、黙って終わったわけじゃないみたいだけどね――」

そんな風に思われていたんだ――ショックなのを通り越して、面白かった。

これまで切磋琢磨してきた頼もしいチームメイト達が、途端に矮小に見えた。

堂々と部室を出れば、当然彼女たちと顔を合わせる羽目になる。

ぎょっとして立ち止まる彼女たちに、優奈は笑った。

『そんなにエースになりたかったの? じゃあ、あんた達も足開けば?』

嘲るように言えば、チームメイトが黙り込む。優奈は更に続けた。

『ああ、ごめん。無理だよね。あんた達程度じゃ、相手にされないもんね。――それから××。あんたの彼氏、何とかしてくれない? ストーカーまがいのことはやめて欲しいんだけど。しつこいから一回遊んであげただけなのに、何か、勘違いしちゃっててちょーキモいから』

そうやってチームメイトを絶句させた数日後には、野球とは関係ない噂まで書き込まれ始める。

『週末は乱交パーティーをしている』『何人ものパパがいる』などなど。だいたいあっているような、いないような。訂正すれば余計炎上するだけだと分かっていたから、もう何も言わなかった。

それまで散々人を持ち上げておいて、負けた途端に貶めた。誰も優奈の味方をしなかった。親も、コーチも、顧問も。友だちだと思っていたチームメイトも誰一人として。

――世の中クソだ。

そう思うのに時間はかからなかった。

野球一筋できた手前、高校に行く意味をなくして中退した。

もう誰も信じられなかった。どんなに努力を重ねたところで、必ず誰かが足を引っ張りに来るのだ。

だったら適当にやっていればいい。

居場所もなく夜の街を彷徨っていると、優奈の外見につられて男達は次々と声をかけてくる。適当にあしらって手玉に取る術はいつの間にか身についた。

頼まなくても跪いて貢いでくれるが、トラブルは絶えない。

修善寺温泉を訪れていた穂波と出会ったのはそんな時だ。

行く場所がないならと一緒に東京で暮らし、仕事を紹介してもらった。キャバクラである。

男から合法的に貢いでもらえ、お金が稼げるキャバクラは、正直楽しかった。誰とも深い関係にならずともよく、言葉一つで男達を翻弄できる。

大体の男は優奈の思い通りだった。

例外はただ一人。

――平泉翔平だ。

彼は優奈の外見に靡かなかった男である。

それどころか、初めて出会ったバッティングセンターで、

『ナイバッチ! どこのチーム?』

と声をかけてきたのに、優奈がからかってホテルに誘ったのにそれを蹴って

『これから練習があるから、じゃあバッティング頑張って!』

と言って去っていったのだ。

ただの童貞かと思っていたら、後日、テレビ中継で彼がプロ野球選手だったことを知った。

終盤、逆転ホームランを打たれた平泉翔平は、何故かとても楽しそうな顔をしていた。

ベンチに戻ったら責められるだろうに、それでも彼の表情は曇らない。

――いいな。

何故か、うらやましいと思った。

野球を心底楽しんでいるようなあの男が。

頭の中は野球でいっぱいで、優奈の顔など見もせずに、バッティングフォームだけ気にしていた。

本物の野球馬鹿だ。人生の悩みなんて、精々野球に関することくらいしかないのだろう。少なくとも、野球をやっていた頃の優奈はそうだった。

攻守交替し、打順は平泉翔平から。そして――ホームラン。

優奈はその時の翔平の笑顔に心を鷲掴みにされたのだ。

――その時、勢いよくドアが開いた。優奈は怒り心頭で穂波に掴みかかった。

「ちょっ、何勝手に人の過去喋ってくれてんのよ! 信じらんないんだけど!」

「何だ。聞いてたの? まァいいじゃねェか。この子らは、昔のチームメイトたァ違うって、優奈だって分かってンだろ」

「っそれとこれとは別よ! 馬鹿じゃないの!」

「優奈ちゃーん! 優奈ちゃんはやっぱりすごいんだね!」

アキは思わず優奈に抱きついた。

「ちょっと、何! 離れなさいよこの犬っころ!」

「嫌だ嫌だ! やっぱり優奈ちゃんと仲良くなりたい! もっと色々知りたい!」

「だからっ懐いてんじゃないわよ!」」

「ぶははっ! ね、見て見てこれ!」

空気を読まず突然汐音が笑い出して、みんな一斉に彼女の元に集まる。

見せびらかすスマートフォンには、ドレスコードでアイドルばりの決め顔を浮かべる八郎の写真がドアップで映し出されていた。

おそらく昨晩のホスト講習の時のものだろう。

「うわっ! きっついねーこれ!」

「馬子にも衣装とはこのことでぃ」

笑いをこらえきれない萌に対し、穂波は完全に引きつった笑みを浮かべる。

「優奈も見なよー、八郎のキメ顔」

「……そんなものくらいで……笑えるわけな――っ」

声が震えて言葉にならないようだ。

優奈はついにこらえきれずに笑い出した。

穂波は優奈の肩をぽんと叩いた。

「どうでェ、優奈。この子らがあいつらと同じに見えるか?」

「っさい……知らない。そんなくだらないこと、聞くんじゃないわよ」

そっぽを向く優奈の耳は、僅かに赤らんで見えた。