その日は珍しく、日中は全科休講だった。
というのも今日の課外実習が夜通しの活動となるものだから、「昼間しっかり休んでおきなさい」というのがゆかり女史からの宿題だったのだ。
そして夕方17時。
寮の各部屋に集合と言われ、アキたちは共有スペースのソファに並んで指示が来るのを待っていた。
「うう……今度はいったい何をやらされるんだろう」
アキは見るからに落ち着かない様子で、先ほどからしきりに肩を揺らしている。
隣に座る涼香が、困ったような笑みを浮かべながら優しい声で言った。
「今日は『おもてなし』の研修なんだべ? そしたらどこかのレストランとか……このスケジュールならスナックとか」
「えー、また飲み屋さん??」
この間見知らぬ輩たちに絡まれた一件もあり酒飲みにあまりいい印象はない。ため息をつくアキに七瀬は笑った。
「アキじゃスナックのママなんて無理だよねー」
「スナックのママが似合うのなんて、優奈くらいじゃないの?」
汐音の言葉に皆がくすりと笑う。何故か部屋には優奈はおらず、いつものような反撃の言葉が飛んでくることもない――と油断していたその時だ。
扉が開き、優奈が顔を出す。
「みんな揃ってる? そろそろ行くわよ……って、何アホ面してるの?」
「い、いや、そうじゃなくってその恰好……」
池の鯉のごとく口をぱくぱくさせるアキに、優奈は小さく鼻を鳴らして頬に掛かる髪を払った。
その身を包むのは、身体のラインが浮き出る真っ青なドレス。
大きくひらいた肩口からは透き通った肌がさらけだされ、艶のある生地は部屋のLEDの下でもきらきらと輝き、それが余計にまろやかな曲線を強調する。
「何よ、何か文句あんの」
「夜のちょうちょだね」
アキの答えに優奈は呆れたようにため息をついた。
褒めたつもりなのだが優奈の反応が芳しくないため、助けを求めるように七瀬を見る。
「間違ってないけど。ちょうちょって……幼稚園児じゃないんだから。そんなこと言われたら気が抜けるわよ」
「しっかし、こりゃ見違えたってェもンだ。髪の毛もくりんくりんしてらぁ」
穂波が感嘆の息を漏らした。
「分かってんの。あんたたちも着るんだけど」
「わたしたちも……って、ええっ!?」
アキが素っ頓狂な声をあげる。
優奈はもう一度鼻を鳴らすと、くるりとドレスの裾をひるがえすようにして背を向けた。
ふわふわに巻かれたロングの髪が合わせて宙を舞う。
優奈はそこでふと思い出したように振り返って、みんなを見た。
ふんわりと、甘い香水の匂いが漂う。
「それから、わたしの事を今夜だけ『先生』と呼びなさいよ」
校門を出ると、アキたちは並んで止まっていた高級車に乗せられた。車の中は広々としており、シートはコの字型の皮張りソファのようになっている。
周りを見ると他にも似たような車があり、他の学生たちも寮室ごとに乗り込んでいるようだ。
「あの、優奈ちゃん。これからどこに行くの? わたし達、何をするの?」
「あー、もう! っさい! 行けば分かるから黙ってなさいよ!」
「あう、ごめんなさい……」
ピシャリと言い捨てられて、アキは縮こまる。
一緒に乗った涼香が慰めるように、ぽんとアキの肩に手を添えた。
「運転手さん、出してください」
不安げなアキをよそに、涼香の手で無慈悲にドアは閉められる。
車は夕方の新宿の街へと滑り出した。
「大丈夫、心配なか」
「うん……ありがとう圭ちゃん」
向かいから宥めるように笑いかける圭にアキはいくらか救われた気分だった。
「ここって……歌舞伎町?」
ドラマや映画で1度は見たことがある特徴的な赤いアーケード。
車から降りたアキは、そこに書かれた街の名前をぽかんとした表情で見上げていた。
「はい、降りたらシャキシャキ歩く」
優奈に急かされるようにして通りへと足を踏み入れた。
校門でもそうしたように辺りを見渡すと、他にもテルマエの生徒らしき男女グループの姿がある。
だがそれぞれの集団で目的地が違うのか、全く統率のとれていない流れだ。
いかにもな繁華街を抜けて、通りはやや薄暗い雑居ビル群が並ぶ道へ。
既に仕事帰りのサラリーマンでごった返す繁華街と違って、こちらの人通りはまばらだった。
彼女たちは言われるがままに通りを歩き、1件の雑居ビルのエレベーターに乗り込む。
そしてようやくたどり着いたのは、『MINERVA』と看板に書かれたお店だった。
「うわぁ……すごい!」
中に入って、アキは思わず目を見張る。
第一印象は、なんというか、「大人」だ。
広いホール状の空間の中には手触りのよさそうなボックス型のソファが並び、それぞれに小さなテーブルが添えられている。
壁の大きなスクリーンは何に使うのだろうか。
今は店名である『MINERVA』という3D文字が、くるくると軌跡を描いて回っていた。
「ここってもしかしなくてもキャバクラ?」
「見れば分かるでしょ」
感心したように溢した萌に、優奈はどこかイライラした様子で答える。
「時間無いからドレッサールームで着替えて、化粧してきて。衣装はお店にあるやつを良い感じに当てて貰えるから」
「ちょっと待ってよー!」
次へ次へと急かす優奈に、汐音が思わず待ったをかける。
「これって『そういうこと』なの?」
優奈は不満げな表情で頷く。
「今日の課外授業は『1日ホステス体験』。講師は私、源口優奈――もとい『MINERVA』のNo.1ホステス『諸星まゆり』が務めるからそのつもりで」
「No.1って……ええええ、そうなの!?」
「驚く前に着替えなさいよ」
優奈がアキをスタッフオンリーの扉に押し押し込むと、他のメンバーも戸惑いながらその後に続く。
それから約1時間後――麗しい7人のホステスの姿がお店に一同に並んでいた。
「どう、似合う?」
真っ先にドレス姿を見せびらかすのは汐音だ。
金髪によく映える黒いスレンダーなドレスが、化粧と相まって彼女を大人色に染め上げる。
「うん、良いんじゃない? 私はちょっと地味かなぁ……」
「そんなこと言いなさんな。眩しいほどにべっぴんさんでい」
頬を掻く萌のドレスは汐音と対照的な真っ白なスレンダータイプ。
一方の穂波は落ち着いたベージュのミニドレスだ。
七瀬のドレスはその形の良い脚を上手く生かすように裾の長いスパンコールの生地に大きなスリットが入っている。
「圭ちゃん、姿勢よくて綺麗だなぁ」
「弓道ばしちょ。いずらめんわりど、先生にはらけられる。涼香もほんのこっきれだ」
「そんなごどね、馬子に衣装だぁ!」
すらりと背筋の伸びた圭はすらりとした身体の線を見せる水色のマーメイドドレス。
首をぶるぶる振って謙遜に謙遜を重ねる涼香は、圭よりも胸元を強調するデザインの緑のマーメイドドレスだ。
そして――
「これは……恥ずかしいよ」
最後に、アキがおどおどと視線を気にしながらドレッサールームを出て来た。
ピンク色のふわふわとしたミニドレスはまるで少女漫画のお姫様のよう。
だが大きく開いた胸元からは見事な谷間がのぞき、彼女が少女でないことを主張する。
思わず涼香がその姿に見とれる。視線はもちろん胸に釘付けである。
「アキちゃん、すごく、いい……」
「そ、そうかなあ」
涼香は何度も頷いた。セクシーだ、可愛い、最高だあとべた褒めである。
前々からアキに対してそういうところはあったが、今日はいつになくであった。何となくだが涼香は百合の気があるのでは――そんな七瀬の予想を裏切らず、涼香の大きな瞳が、一瞬だけ、獲物を狙う野獣のように光った。
柔らかそうな谷間をじっと見ていた涼香は、褒められてまんざらでもなさそうなアキとの距離をじりじりと詰める。アキの方はちょっと距離が近いなと思うくらいで、何故涼香が迫ってくるのか全く分からない。
壁際までアキを追い詰めて、涼香は耳元で囁いた。
「……アキちゃん。ちょっとだけ、おっぱい触らせでぐれねぇ?」
「え、あ、うーん……? ちょっとだけなら……?」
アキは困惑しつつ胸を差し出す。涼香は合掌し拝んだあとでマシュマロ並の柔らかさのおっぱいを遠慮なくタッチし揉みしだいた。
「アキちゃんのはやっぱりいい乳だべ」
「んー、おっぱいにいいとか悪いとかあるの?」
「ねぇ!」
涼香はなおも胸を堪能しようとする。
その手が谷間に滑り込もうとした時に、流石にこのままではアキの貞操の危機だと察して、七瀬はさりげなくアキの腕を掴んで引き寄せた。
「キャバクラの予行演習はそこまでにしておいたらどう?」
「えー! キャバクラっておっぱい揉まれることあるの?」
心底びっくりしているアキに七瀬はため息をつく。
「さあ。酔ったおじさん達相手だしそういうこともあるんじゃないの、知らないけど」
一連のやり取りを笑いながら見ていた穂波が口を挟む。
「キャバクラは基本、おさわり禁止。安心しな」
「そっか、よかったぁー」
それはそれとして、涼香に無償でおっぱいを揉みくちゃにされたのだからよくはない。だがそこはアキ、よく知らないおじさん達に胸を触られることに比べたらなんてことはないのだった。
しばらくそれぞれのドレス姿に感想を言い合っていると、ややピリピリした様子の優奈が彼女たちの前に並んだ。
傍には白髪交じりの髪をオールバックにびっちりと固めたタキシード姿の中年男性の姿がある。
おそらく、この店の店長だろう。
「時間がないから手身近に説明を始めるわよ。さっきも言った通り、今日のホステス学課外授業は『1日ホステス体験』。学園と提携関係にあるキャバクラやホストクラブに『体験入店』扱いで配属されて、おもてなしの技術を習得してもらうから」
「はい! はい! その『おもてなし技術』ってのは具体的に?」
優奈が講師役なのを面白がってか、大げさに手を挙げる萌。
「それに関してはゆかり女史から与えられた課題を説明した方が早いわね」
優奈はひと呼吸おいてから、7人の顔を1人1人見渡して言った。
「営業時間内に1人1回『場内指名』を獲得すること――それが今日の課題よ」
「場内指名……?」
聞きなれない言葉にアキが首をかしげる。
アキだけでない。
もともとキャバクラに縁遠い少女たちは、その課題内容にいまいちピンとこないのだ。
そこで優奈の傍に控えていた男性が艶やかなバリトンボイスで答えた。
「店長の庄屋です。場内指名というのは、簡単に言えばお客さんに『ウチのテーブルについてくれ』と名指しで呼ばれることです。ナイトクラブ系のお店ではそれをシステム化していて、指名には別途『指名料金』をいただくことになっている。だからお客さんもちょっとやそっとじゃ指名しないし、キャストにとっても『指名される』ことはステータスとして周りに評価される。まゆりちゃん――優奈ちゃんはウチのNo.1。つまり、お店で最も指名の掛かるキャストってことになるね。お客さんは優奈ちゃん目当てにお店に来てくれるというわけだ」
思わず場に感嘆の声が漏れる。
「優奈さんってすごい人だったんだね……!」
「だったら何、褒めても何も出ないから」
目を輝かせるアキから、優奈はツンとして視線を外した。
「普通『指名』っていうのは『本指名』と言ってお客さんが入店時に告げるものだけど、『場内指名』は文字通りお店の中で『あ、あの子良いな』って思った子を残りの時間、ないし時間を延長して指名すること。基本的にはフリーの客さんが、たまたま自分の席についた子が気に入ったから『今日は時間いっぱいこの子と飲むぞ』って感じで使うことが多いわ。指名がなければウチのお店は15分交代で女の子を変えることになっているから、その間に精一杯アピールして、『自分』を選んでもらうの。正直、生半可じゃないわよこの課題」
一同はごくりと息を呑む。
たった15分で初対面のお客さんに気に入られる――経験がなくても、それがどれだけ大変なことか理解できる。
「さらに言えば、当然お店では他のキャバ嬢も働くから。体験入店の子たちだけで店を回すなんてことはしないからね。だからあんた達はプロのキャバ嬢が居るテーブルに、ヘルプとして付けられることになる。当然そのお客がフリーで入ってるなら、彼女たちも場内指名のライバルになる」
脅すように優奈は声をひそめた。
「体験入店とはいえ、お客さんにそんなのは関係ない。あんたたちはプロのキャバ嬢として『MINERVA』の看板を背負って接客するの。悪い評判が立てばたった1日のことだろうと、今後出勤しなかろうと、お店の評判としてずっと残り続ける。それを自覚して働きなさいよ」
言い切ったころには、場内はしんと静まり返ってしまっていた。
それぞれの顔に浮かぶ緊張。
そんな空気を吹き飛ばすように穂波がヘッと笑みをこぼした。
「そんなら、景気づけに客を取るコツのひとつやふたつ教えちゃくれねェかイ?」
優奈は一瞬ムッとした様子で口を噤んだが、やがて小さく息を吐いた。
「ひとつは相手の目を見て笑顔で話すこと。それだけで印象はまずOK」
うんうんと、店長が納得するように頷く。
「ふたつ目は相手に話をさせること。大半のお客さんは自分の話をしたくってお店に来ているわ。だから語るよりもどんどん話を引き出してあげて」
「もうひと声」
穂波が悪びれることなくお代わりを所望すると、優奈は今度こそ大きなため息をついて頭を抱えた。
「これ以上は課題よ。きっと、それを理解するなり身に着けた時に指名は獲得できるから」
「だったらなおさら教えてくれたっていいじゃん」
「それじゃ意味がないでしょ。そんくらい自分で考えなさいよ」
口を尖らせる汐音に、優奈はきっと睨み返した。
「それじゃ、そろそろ開店の時間です。まあ、分からないことがあったら私でも、他のお店の子でも良いからなんでも聞くと良いですよ」
店長が開店準備のために店の外へと出ていく。
ドレッサールームからはいつの間にか出勤していた他のキャバ嬢たちがぞろぞろと顔を出し、アキたちと簡単な挨拶を交わした。
「やっぱり、みんなキラキラしてんなぁ」
「そうだね。うう、緊張してきた」
アキと涼香はプロのキャバ嬢たちが放つオーラに気おされ気味だ。七瀬はこういう時、開き直って堂々としているので今回の課題もそつなくこなすのだろう。アキは幼馴染をうらやましく思った。
そうは言ってもやるしかない。
彼女たちに続いて、お店の入り口にお客を出迎えるための列を作る。
そんな中でふと、汐音が優奈の肩を叩いた。
「ねえ『まゆり』ちゃん。うちらの課題が指名1回なら、プロは何回なの? 指名10回とか?」
挑発するような汐音の言葉に優奈は小さく鼻で笑い飛ばすと、これまでの学園生活では見せたこともない朗らかな笑みを浮かべて答えた。
「あのね、そんな簡単な課題なわけないじゃない」
優奈の持つ絶対の自信――No.1の余裕とプライドがその一言に詰まっている、誰もそれ以上追及することができなかった。
「まゆりさん、ご指名入りまぁす」
ボーイの声が届いて、まゆり――こと優奈はにこやかな笑顔で振り返る。
「わ~、佐々木のおじ様、来てくださったんですねっ!」
「そりゃ、他でもないまゆりちゃんに連絡を貰ったら来るしかないよねぇ」
しなやかに歩み寄った優奈に、佐々木と呼ばれた初老の男性はにこやかな笑みで答える。
そのまま優奈は彼の手を引くようにして、奥のボックス席へと誘った。
「すっご。あれで今日何人目?」
「もう10は行ったんじゃないの?」
目を見張る萌に、同じ席についた汐音が唇を尖らせる。
「プロなんだから、あれくらい出来なきゃダメでしょ」
「もー、こういうときは素直にすごいって言いなよ」
「すごーい」
開店から2時間ほど。
駆けこむように入ってくるお客は、みんな優奈の指名客ばかりだった。
ただ、凄いのはそれだけではない。
優奈は客毎にキャラクターを変え、時には母親や妹のように、時には友人のように、時には恋人のように振舞っていた。いつもつんけんしている優奈からは考えられないほど聞き上手で、話し上手だ。どの客も楽しそうで、満足げな表情を浮かべていた。
何気ない会話の中から客の望みを敏感に読み取って、甘えたり女王様になったり。接客する様は流石プロだとしか言いようがなかった。
それにしてもこのお店、やってくるのはどれもこれも身なりの良いおじさんばかりで、少なくともこのお店が同じナイトクラブでもかなり格式の高い方だということがうかがえる。
それは所属するキャストの質にも直結していた。
他のお店なら簡単にNo.1を取れるであろう大勢の輝かしいばかりのプロキャバ嬢たちの中で、優奈は一番キラキラしていた。
「アキちゃん、あの奥のテーブルお願いできるかな?」
「は、はいっ」
化粧直しが終わったところで、店長が次につく席を斡旋してくれる。
これまでのアキの戦績は4テーブルで指名なし。
慣れないせいか、ムダにテンションの高いお客さんや、それに順応する他のキャストたちに圧倒されてしまってまともに会話なんてできていなかった。
「ほっほう! おまさん薩摩おこじょか!」
不意に聞こえた豪快な男性の話声が、アキの足をふととめた。
ちらりと席を見ると、恰幅の良い人の好さそうなおじさんが、飲み物のお代わりを作る圭と一緒に笑いあっていた。
「おけはんも、じっぱな薩摩隼人じゃねですか」
「はっはっはっ、うれしかうれしか!」
どやらお客さんに同郷出身の人がいたようだ。
首都東京ともなればそういう話題の種もあるわけだ。
「部長~、何言ってるか全然分かりませんよ~」
「うぜらし田中! 俺はこの子と飲むから、そっちのとでも飲んでろ!」
「あっはっ、何怒られたのか全っ然分かんね~! いや何となくわかるけど!」
部下らしき青年も話のタネに大笑いしていて、テーブルそのものが盛り上がっている。
「薩摩隼人じゃったら『しょちゅ』ですよね?」
「お、あっとか?」
「霧島の赤でよかなら」
「分かっちょるな! よし、しょちゅ1本! あと、こんケイちゃんをつけてくれ!」
「ありがとうございまぁす↑」
注文を受けたボーイがにこやかにバックヤードへと駆けていく。
「圭ちゃんすご~い!」
アキが思わず見とれてしまっていたところ、それに気づいた圭が嬉しそうに手を振ってくれた。
乗せ上手というよりは、単純に度胸があるのだろう。
おじさんと話している彼女はいつもと何一つ変わった様子はない。
彼女の素があのお客さんにとっては心地が良いのだろう。
ある意味、故郷の思い出にでも浸っているのかもしれない。
それと同じ方法でお客さんの心を掴んでいるキャストが、圭と同じテーブルにはついている。
「お控えなすって! 生まれは東京が葛飾。名はホナミと申します。どうぞ、よろしくお願いいたしやす!」
「あっはっはっ、ヤクザかよ! Vシネで見たことあるわ!」
あたり普通のクラブなら間違いなくアウトな挨拶口上。
だが、薩摩隼人と一緒に来たノリの良い青年には良い感じにツボに入ったらしい。
「なあなあ、お控えなすってってどういう意味なの?」
「深い意味はないんです。強いて言えば、電話口の『もしもし』と似たようなものですね」
「もしもしと一緒て!」
お客さん、大笑い。
どうやらそもそも笑いの沸点の低い人のようだ。
「なんか部長は部長で楽しんじゃってるから相手してよ~。指名するからさ。どうせ奢りだし」
「そいつはありがたいことで。どうぞ心行くまで楽しんでくださいまし」
「はい、ホナミさんご指名入りまぁす」
ちゃっかり課題要件をクリアして、穂波ははす向かいに座る圭にVサイン。
声もなく笑いあってから、それぞれのお客へと意識を戻していった。
「みんなすごいなぁ……」
「アキちゃん、まだ~?」
「あっ、はい! 今行きます!」
奥のテーブルから先輩キャストが手招きをして、アキは慌てて駆けていく。
飲み会帰りか何かで来たらしい大人数のサラリーマンのグループの中で、数人の先輩キャストと一緒に汐音が開いたグラスにお酒を造っていた。
「アキ、お疲れ~」
「お、お疲れさま。汐音ちゃん」
アキが顔を見せると、汐音が笑顔で招き入れる。ホールに出てからというもの、いつものKYは鳴りを潜め、借りてきた猫のように大人しく接客している姿がまた凄い。
汐音はにこやかに隣の席に座った客に訊ねた。
「すみません、この子も一緒にいいですかぁ?」
「新しい子? いいよいいよ、ここおいでよ~」
アキはぎくしゃくと挨拶をする。
「はじめまして、ア、アキです! よろしくお願いします!」
アキはガチガチに緊張しながら汐音の隣に席を取る。
「なにアキ、まだ緊張してるの?」
「ううっ……慣れなくて」
アキは肩を小さくする。
「初々しくて良いじゃない! プロっぽいのより俺はそういうの好きだよ」
アキを呼んだ実業家風の青年は、ニコニコと笑顔で迎えてくれた。
「アキちゃん何か飲む?」
「あ、ありがとうございます。えっと、ウーロン茶を」
「あっ、私も貰っていいですか?」
「どうぞどうぞ」
「じゃ、ウーロン茶でお願いしまーす!」
汐音がボーイに声を掛けると、彼はすぐに持ってきてくれた。
「それじゃ、乾杯」
「か、乾杯っ」
「かんぱーい」
グラスをあわせてカランと透き通った音が響く。
そして一口含んだところで、青年はすくりと立ち上がった。
「ゴメン、ちょっとトイレ」
「は~い、行ってらっしゃい」
アキは汐音と手を振りそれを見送る。
ボックス席の他のお客たちは、それぞれにそれぞれのキャストと楽しんでいる。
一息つく時間ができて、汐音がアキの耳元でこっそりと囁いた。
「課題の方はどう?」
「それが全然……汐音ちゃんは?」
「私、ここの団体に最初について勢いでまとめて指名してもらった。ラッキーだったよ」
「えぇ、いいな~。私もそれ、欲しかった……」
「こればっかりは運だね。正直、優奈が言ってた最後の『コツ』分かんないもん……」
そんな時、場内がざわついた。
辺りを見渡すと、お客がみんな一斉に一人のキャバ嬢の姿を見ている。
釣られて視線を向けると、そこには濃緑のドレスに艶やかな黒髪をなびかせる、びっくりするくらいの美人が歩いてくるところだった。
「うわぁ、凄い美人さん……あんな人でもNo.1になれないんだ」
「それ、マジで言ってる?」
「え?」
汐音の怪訝な反応に、アキはもう一度謎の美女の姿を見る。
そう言えばあのドレス見覚えが――
「――って、え!? もしかしてあれ涼香ちゃん!?」
よくよく見れば確かに涼香だ。
いつの間にか眼鏡を外していた彼女は、ぱっと見同じ人物とは思えないほどにキラキラと輝いて見えた。
眼鏡をかけていても清楚な美少女だとは思っていたが、外せばこれほどの破壊力なのだ。その美貌を武器に指名を貰わない手はない。
「ボーイさん、あの子席につけてくれんかね?」
早速、隣のボックス席の紳士が涼香に目を付ける。
ボーイがにこやかに対応すると彼女は驚いた様子で、ちょっと恥ずかしそうにボックスへと入って行った。
「涼香ちゃんすごい……」
「眼鏡外すと美少女展開なんて漫画でしか見たことなかったけど、本当にいるんだねー。ってそんなことより、さっきの人トイレから出てくるころじゃない? 行って来たら?」
「えっ?」
突然の提案に、アキは虚を突かれたように目を丸くする。
「お出迎えしてお手拭き渡してあげると、ちょっとしたポイントになるんだって。さっき一緒に入ったキャストのお姉さんに教えて貰った」
「そ、そうなんだ……」
自分なら「汚いからいいよ」って断っちゃいそうだなと、アキはぼんやり考える。
「アキのこと気に入ってるみたいだし、うまく行ったら指名貰えるかもよ?」
「う、うん。分かった」
半ば押し出されるように席を立つと、気づいた店長が何も言わずに温かい新品のお手拭きを手渡してくれた。
トイレのドアが開いて青年が出てくる。
ポケットからハンカチを取り出そうとするので、アキは割り込むように駆け寄った。
「あ、あのっ。これどうぞ!」
「ん、ああ。ありがとう」
青年は笑顔でそれを受け取る。
「使い終わったらキミに渡していいのかな?」
「え? あ、はい。たぶんそれで……」
「ははは、はっきりしないなぁ」
「すみません……」
「いいよ。素直な子は俺大好き」
彼はそう言うと、辺りをちらりと見渡してからアキに一歩詰め寄った、
「アキちゃん、だっけ。キミかわいいね。めちゃくちゃ俺好み」
「いえ、そんなこと……」
圧を感じて、アキは一歩後退る。
「提案なんだけどさ……もしこの後“サービス”してくれたら、俺、アキちゃんのこと指名したうえに閉店まで延長しちゃおうっかな」
指名という言葉にアキが弾かれたように彼を見上げる。
その瞬間を彼も見逃さない。
「欲しいんだよね、指名。さっき他の子に聞いたんだ。ね、悪い話じゃないと思うんだけど」
「あの、“サービス”って……?」
「それはアキちゃんが考えてくれれば。ねぇ。指名に見合うだけのサービス」
青年が一歩踏み出して、アキはまた一歩後退る。
が、すぐ後ろに壁があってそれ以上下がれなくなってしまった。
それを狙っていたのか、彼は一気に身を寄せてアキの耳元で囁いた。
「アキちゃんさ、おっぱい大きいよね」
「はい……え?」
その一言で、アキは完全に固まってしまった。頭の中が真っ白になり、ただ突っ立っていることしかできない。七瀬の言葉が過る。酔ったおじさん達相手だし、そういうこともあるんじゃないの――。
目元にじんわりと涙が浮かんだその時、横からグイッとアキの手を引く人影があった。
優奈だった。
彼女は力任せにアキを自分の傍に引き寄せると、笑みを浮かべて小さく頭を下げた。
「ごめんなさい。アキちゃん、指名が入ったからお預かりしますね」
「え……ああ、そう」
男は振り返りざまにあからさまに不満そうな顔を浮かべたが、相手がこの店のNo.1だと気づくと、そそくさと自分の席へと帰って行った。
それを見送って、優奈はアキの肩に手を添える。
「一度、裏に行こうか」
優奈の提案にアキは小さく、何度も頷く。
その肩はまるで真冬の路地裏に放り出されたかのように小刻みに震えていた。
優奈はアキを控室のソファに座らせて、ウーロン茶が入ったコップを渡す。
アキが震える手でそれを取って口に含むと、ほんのり喉の奥から突き抜けた匂いに思わずむせてしまった。
「優奈ちゃん、けほっ……これ、お酒……!」
「え? ああ、ごめん。自分用と間違えちゃった」
優奈は笑いながら自分の持っていたコップとアキのそれを取り換える。
だが、直前で思いとどまって、アルコール入りのコップをアキの前に戻した。
「あんた堅すぎ。少しくらいアルコール入った方が舌回るんじゃない?」
「え、でも……」
「物は試しだって」
アキは恐る恐る、もう一度コップに口を付ける。
「いい飲みっぷり」
「優奈ちゃん。その……ありがとう」
絞り出すように口にする。
「いいって。たまにいるんだよね、遊び方知らないバカな客」
優奈は化粧の乱れを見つけたのか、鏡を前に化粧ポーチを開いて、睫毛の調整をしていた。
「指名はいいの?」
「ひと通り落ち着いたところだから、15分だけ休憩貰うところだったし」
「そうなんだ」
優奈の簡潔な問答に、アキはなかなか会話が続かずに居心地が悪くなる。あまり人に対して苦手意識を持たないはずなのだが、優奈を前にするとどうも引いてしまうのだ。きつい言葉遣い、仕草一つ一つが何だか怖い。
だが、困っているアキを助けてくれたし、怖いだけの人ではないと思う。
「……優奈ちゃんって、私のこと嫌いなんだと思ってたんだ」
「は? 突然何」
「あ、ごめん。悪気があって言ったわけじゃなくて……なんか、距離置かれてるような気がしてたから、助けてくれるとか、思ってなくて……うまく言えないんだけど――意外だったから」
「別に。距離置いてたのは本当のことだし、あんたにはたいして興味ないけど、講師任された以上変に問題起こされても困るから」
「そっか……ごめんなさい」
――優奈ちゃんがただ怖いだけの人じゃなくて良かった。
いつも何だか苛々した様子で近寄りがたいし、皆の輪に入ってこないけど、本当に困っていればこうして助けてくれるし。接客しながら端々まで気を配っているのも凄い。
心の中で呟いたつもりだったが、アキはどうやら言葉に出していたようだ。
優奈はぷっと吹き出した。
「それ、思ってても言うかな普通」
「え、私声に出てた?!」
「出てた。あーもう、あんたと話してると気が抜けるわ」
「うっ、ごめんね……」
「――だから、謝んなくていいって。あんた達が今夜何の問題も起こさずに終わるなんて、こっちは微塵も考えてなかったんだから」
しゅんとするアキに、優奈はため息をついた。
「で、もう行けそう?」
「あの……正直、どうしたらいいのか全然分かりません」
「ほんと不器用ね、あんた。このままじゃ一生課題クリアできないんじゃないの。あんたの相方はそつなく指名取ってたわよ」
「はう……」
「狙って天然キャラ作ってるんじゃなきゃ、相当要領悪い」
「わたし天然じゃないよ!」
「天然な奴ほどそう言い張るのよ」
形の良い脚を組み、優奈は笑った。
「仕方ないから、特別にヒントをあげる。キャバ嬢は『媚び』じゃなくって『時間』を売る。たった15分の、だけど一生忘れられないようなハッピーな時間を。それが最後のコツ」
「ハッピーな時間……それって、どうやって――」
「あとは自分で考えなさいよ。ほら、休憩はここまで」
優奈は肝心なところをまたぼかして、待合室から追い出すようにアキをホールへと押しやる。
盛況な店内で、アキはすぐにテーブルにつく準備を始めることになった。先ほど涼香が指名をもらったテーブルである。先輩キャストと涼香に迎えられ、まだ少し緊張した様子で席に着く。
だがしばらくして、表情は和らいで初老の紳士と楽しげに談笑を始めた様子だった。
「あ、あのっ。お飲み物お作りしますね」
空になったグラスを手に取り、慣れた手つきで水割りの焼酎を作っている。どうやら実家の温泉旅館の話で盛り上がっているようだ。
「渋温泉か。山形の銀山と並んで、温泉デートをするには良い場所だ。通りを歩いているだけで楽しい。知り合いにも会わないしね」
アキの隣の男性がボーイを手招きし、一言囁くとボーイが景気よく言った。
「アキちゃんご指名、ありがとうございまぁす!」
ボーイの景気の良い声と共に、アキはまん丸に見開いた目をぱちくりさせ、心からの笑顔を顔いっぱいに浮かべていた。
その様を裏から確認した優奈はほっと胸を撫でおろす。
「……やればできるじゃない」
「ちゃんとできてるようだね。まゆり先生」
「――ちょっと、からかうのやめてくださいよ店長」
店長が声を掛けると、最後に残った優奈はむずがゆそうに笑みを浮かべた。
「それにしても、ゆかりちゃんもなかなかハードな課題を与えたもんだね」
「場内指名1回。普通の体験キャバ嬢じゃまずありえないですよ」
「そうじゃないよ」
静かに首を振って、彼は優奈を見る。
「正しくは『寮室生全員に場内指名を1回ずつ取らせる』だろう。君に与えられた課題のことさ」
「あの人、無理なの分かってて言ってますよね」
優奈が唇を尖らせた。
店長は穏やかに笑いながら、ホールで必死に接客に励む学園生たちのことを見る。
「課題というのは人が成長するためにあるものだ。ゆかりちゃんは、この課題で君にどんな成長を期待したんだろうね」
「知りませんよそんなの」
優奈はピシャリと言い放つ。
「課題をクリアする。評価が高まる。その事実が、わたしを守るんです。お店だって同じこと」
「……そうだね」
店長がどこか諦めたように頷き返した。
「さて、忙しい中で無理に休憩を入れた穴は埋めて貰わないとな」
「えー、大目に見てくださいよ。先生として頑張ってるんですから」
「それはそれ。まだ君の課題はクリアできていないようだしね」
「はーい、頑張りまーす」
気の抜けた返事をして、優奈がホールへと戻っていく。
No.1の再登場にお店の空気がわっと華やいだ。
つづく