【小説】東京テルマエ学園 第1章8話 『奥飛騨温泉で課外実習。混浴露天風呂の果てに』後篇

日の出の時刻は過ぎているというのに、鬱蒼と生い茂る森の中には優しい光は届かない。どこからともなく聞こえる鋭い鳥の鳴き声に背を震わせ、七瀬はアキの手を強く握り、雑草の茂みを踏み分けていた。

「人の手が入ってない森がこんなに気味が悪いなんて思わなかったわ……」

「そうかな? 七瀬の家の裏山とおんなじでしょ?」

「あの山は代々うちが手入れしてるからここまで日が入らないってことはないのよ。太陽はもう昇ってるのにこんな薄暗いと、今にもお化けとか出てきそうで……」

「だぁーいじょうぶだってお二人さん! そんな不安なんざァ秘境の湯につかれば吹っ飛んじまうよ!」

先頭を進んでいた穂波が振り返って拳を振り上げてみせた。朝だというのに元気いっぱいな穂波に苦笑して、七瀬は心を落ち着かせようと小さく息をつく。

たった三人で鬱蒼とした森の中を突き進んでいるのは、穂波が秘境の温泉を探しに行きたいとゆかり女史に直談判したからだ。

混浴を出て、他の露天風呂や室内風呂を楽しんだ後。いつものメンバーで旅館内部を探検したり、見つけた卓球台で卓球大会をして過ごしたアキ達。待ちに待った夕食は予想に違わぬ、いや予想以上に素晴らしいものだった。飛騨牛はもちろん、山・川・海の幸がふんだんに盛り込まれた料理はボリューム満点で、食べ盛りの男子、女子をも十分に満足させるものであり、味については言うまでもない。

ご馳走に舌鼓を打ち、宴会場の前方に置かれているカラオケセットで舞台にあがった男子生徒が熱唱しているのを他の生徒がやんやと囃し立てていた頃。穂波がほろ酔いのゆかり女史の隣へ腰を下ろしたかと思えば、勢い良く頭を下げた。

「ちょっと、なぁに?」

「秘境の温泉を探しに行かせてください!!」

穂波の趣味は温泉めぐりだが、その中にはあまり人の立ち入らない、知る人ぞ知る天然の温泉――秘境の温泉も含まれている。どうやら穂波は旅館の従業員に聞き込んで、旅館から一時間ほど歩いたところに天然の野天風呂があると知ったらしい。

温泉めぐりの趣味が疼いたが自由時間といえどさすがに旅館から遠く離れるのは駄目だろうと、責任者であるゆかり女史に許可を貰いにきたのだという。

焼酎でほろ酔いの頭を無理やり動かしてゆかり女史は悩んだ。温泉専門学校の教師としては、天然の野天風呂も一種の風呂であるのだから許可を出したいところだが、旅館から少し離れているというのが気にかかる。引率教師として生徒に何かあったらと考えるのは当然だった。けれど穂波の希望も叶えてやりたい。

「しょうがないわねぇ」

ゆかり女史が悩んだ末出した結論は、一人ではなく何人かで行くことと、帰る時間は必ず守ること、誰が相手でもいいので一時間毎に連絡を取り合うことだった。大喜びした穂波が仲の良いメンバーに声をかけ、同行を承諾したのがアキと七瀬だったのだ。

楽しそうだというだけで頷いたアキ。アキが行くならと承諾してしまった七瀬は、森がこんなにおどろおどろしいなら断ればよかったと早くもネガティブだ。

「従業員の姉さんから聞いたところによりゃア、そこの天然温泉はいろんな動物が入りに来るらしいぜ。猿はもちろん、たぬきやら鹿やら猪やら。まァ寒い冬の日に限るらしいンだが、動物と混浴ってのもまたオツなもんだよなァ」

「へぇー。わたしも猿となら入ったことあるけど、さすがに鹿とは入ったことないなぁ。たぬきとか猪もお風呂好きなんだね!」

「暖をとるためでしょ。冬眠前に入るのかしら、それとも冬眠が終わってから? どっちにしろ、大人しくしててくれたらいいんだけど……」

「いや、さすがにもう入ってこねェだろ。冬の終わり頃の話らしいからね」

「そっかぁ残念。たぬきとは一緒に入ってみたかったなぁ」

あのもふもふの毛がぺたんこになったところを見てみたかったのに、とアキは肩を落とした。

七瀬はたぬきの冬毛があちこち湯に浮いている様を想像してしまい、今が春で本当によかったと思いながらリュックを背負い直す。アキの実家の旅館で猿とともに混浴をしたことがあるのだが、湯からあがるときには決まって肌に毛が貼りついていて、室内でのシャワーが欠かせなかったことを思い出したのだ。

「…………ォ」

さわさわと葉が揺れる音に紛れて、何かが聞こえた。

穂波が「シッ!」と唇に指をたて、後ろに続く二人へ手で制す。

「え? 穂波さん、どうし……」

「アキ、しっ!!」

空気の読めないアキが口を開くのを七瀬がとめる。

アキは七瀬に任せ、穂波は警戒しながら周囲へ目を走らせる。さわさわ、かさかさ。葉が擦れ合う音を聞きながら、先ほど聞こえたものの出処を探す。

「……ォォ……」

また、聞こえた。

今度はアキと七瀬にも聞こえた。揺れる木々にかき消されそうなほど小さな音だったが、道の先から聞こえたそれを穂波はしっかり捉えた。

「……何かの声みたいだな。どォする、道を変えるか?」

「こんなところに人……は、いないみたいだし。変えた方が安全かもしれないですね」

「え、どうして? このまま行こうよ、旅館の人から聞いたのはこの道なんだよね? 勝手に道を変えて、温泉まで辿り着けるかな?」

首を傾げるアキは、確かに正論だった。

地元民しか知らない秘境の温泉だ、教えてもらった道筋を行くのが正しいだろう。けれどそれは安全が確保できれば、の話だ。

穂波は自分のわがままに二人を付き合わせているという自覚がある。それに二人よりも年上で成人している身として、二人を無事に焼岳旅館へ連れて帰らなければならない。

多少道がずれようが、安全な道を行くのが正解なのではないだろうか。

「ほら、行こうよ! 早くしないと学園へ帰る時間になっちゃう!」

考え込む穂波をよそに、アキは七瀬と穂波の手をとってずんずん歩き始める。

「ちょっとアキ!」

「おいおいアキの嬢ちゃん!」

「大丈夫だよ、きっと! ね!」

アキはにっこり笑ってみせた。

全く根拠はないのだが、アキが大丈夫だと笑うと、なぜだか本当に大丈夫なような気がしてくるから不思議だ。穂波と七瀬は顔を見合わせ、諦めたように小さく笑った。

「しょーがねェなァ、アキの嬢ちゃんは」

「変なところで頑固なんだから、もう!」

三人手を繋ぎ、勢いのまま進んでいくと、少しずつ声がはっきり聞こえるようになった。子猫のように高いような、大型の成犬のように低いような何かの鳴き声。

「……呼んでる」

「え、なに?」

ぽつんと落ちた言葉。聞き取れず七瀬はアキに聞き返すが、アキは目を閉じて耳を澄ましているようだった。

穂波が背丈ほどの高さの草を片手でかき分けた、その瞬間。

「ギャオ!!」

「うわッ!!」

「きゃー!!」

犬よりも少し大きいくらいの黒っぽい動物が吠えた。思わずアキを真ん中にしてすがりつく。

グウウ、と低く唸って威嚇するのは熊だった。大きさからして、まだ子どもだろう。

視線を外さないままじりじりと後ずさる。子どもだからといって攻撃してこないとは限らないし、子どもがいるということは必ず近くに母熊がいるはずだ。子育て中の母熊は神経質で気が荒い。見つかる前に逃げたほうがいい。

「イチ、ニの、サンで来た道を戻るぞ。いいな?」

穂波が小声で呟いた。七瀬は泣き出しそうになりながら頷く。

けれどここでも、アキがふるりと首を振る。

「ねえ、なんかあの子熊さん、動いてないね?」

アキは二人と手を繋いだまま、一歩足を踏み出した。

「ッ!? おい、アキ!!」

「ちょっと!!」

突然熊に近づこうとするアキを信じられない思いで穂波と七瀬が制止する。けれどアキはじっと熊を見つめたまま。

熊は一歩近づいたアキに警戒している様子だが、その場から動こうとはしない。

首を傾げたアキは、更にもう一歩近づいてみる。

「アキもうやめて!!」

「聞け、アキ!!」

穂波と七瀬が声を張り上げた途端、小熊が「ガオッ!」と鋭く吠えた。肩を竦ませ、恐怖で震える穂波と七瀬にアキは勢い良く振り返った。

「大変だよ、あの小熊さん罠にかかってる!」

「「……え?」」

「ほら、左の後ろ足!」

熊が動けないと知って、二人は恐る恐る身を乗り出す。確かに、熊は臨戦態勢でいるにも関わらず動こうとしていない。

穂波が首を伸ばしてみると、アキの言うとおり、熊の左足から短いパイプのようなものが2本繋がっていて、そこから鈍く光るワイヤーが地面に隠れるように這わされ、側の木にくくりつけられていた。

熊は動こうとしないのではなく、動けなかったのだ。

「ほんとだ……よく気づいたわね」

「勘弁してくれよアキの嬢ちゃん、私の心臓が持たねェよ……」

目に見えてほうっと安堵する二人にごめんねと両手を合わせ、アキは熊へ向き直る。もう一歩近づいて「うーん」と腕を組んだ。

「これ、どうやったら外れるんだろう」

「え、ちょっとアキ、外す気なの!?」

思わぬ発言にぎょっと目を見開く七瀬に、アキは力強く頷く。

「だってほら、あそこ見て! 罠注意の看板あるでしょ? あれ、イノシシのためのって書いてあるよね?」

アキの示す方を向くと、そこには罠を設置した人が作ったのだろう、注意事項を書いた紙に透明のビニールを被せた手製の看板が穂波たちのいるすぐ近くの木に目立つよう貼りつけられていた。

そこには確かにイノシシのための罠を設置、といった旨が書かれている。

「ね! この罠はイノシシ用で、熊のじゃない。この子熊さんはうっかり罠にかかっちゃったんだよ。このままだと殺されちゃうかもしれない! まだ子どもなのに、可哀想だよ!」

「可哀想だからって、ちょっとアキ、わかってる? この熊、さっき私たち見て威嚇してたよね? 罠を外したら襲われちゃうかもしれないじゃない!」

「今は、罠が外れないからパニックになってるだけだよ! 熊は基本、怖がりな動物だから、罠を外して自由になったってわかれば勝手に逃げていくって!」

「基本、だろ? パニックになってる今、罠を外して自由にさせちまうと、わけわかんねェままこっちを襲ってくる可能性の方が高くねェか?」

「でも、でも……!」

アキだって勝手に罠を外して熊を逃がしてしまうことを最善だとは思っていない。長野の山の温泉地で育ったのだ、野生動物の危険さや罠の必要性はきちんと理解している。けれどこの熊がまだ子どもだということが気になってしまう。

熊は子育てをする動物だ。この熊が子どもならば、母熊がどこかにいるのだろう。このまま放っておけば、この子熊は人間に捕らえられ、駆除という名目で殺されるはずだ。――子どもを喪って、母熊が悲しまないわけないじゃないか。

死んだ者が生き返ることはない。それは人間だって動物だって、生あるものにとっては同じことだ。

アキの両親はいない。母親は病気で死に、母親を愛していた父親はその死を受け入れられず失踪した。アキにはおばあちゃんがいてくれたけれど、周りの子がパパとママを呼んで甘える様を見せ付けられては、いつも胸が締め付けられるような悲しく寂しい思いをしてきた。

だからだろうか、どうしてもこの子熊を逃がしてあげたい。そして無事に、母熊と再会させてあげたいと思ってしまう。

唇を噛んで俯くアキをじっと見つめていた穂波は、諦めたように深々とため息をついた。

「ほんと、お人好しだなァアキの嬢ちゃんは。しょうがねェ、好きなようにやってみろィ」

「えっ穂波さん!?」

「気になっちまうンだろ、この熊が。そンなら、アキの好きなようにしてみろ。罠外して、そのまま逃げちまえばラッキー。こっち攻撃してきたら……全力で逃げるしかねェか」

「全力で逃げて、助かるものなんです……?」

「無理なら全員お陀仏だな!」

「いやー!! まだ女優デビューしてないのに死にたくないー!!」

いやいやと頭を振った七瀬は来た道を振り返り、ぶつぶつと逃走ルートを考えている。けれどアキを止めようとしないのは、穂波同様、アキの思うようにやればいいと思ってくれているからだろう。

「二人ともありがとう!」

ほんの少しだけ熊に近づいた穂波が、仕掛けられている罠の外し方を教えてくれた。

この罠はくくり罠といって、罠を踏むとワイヤーが瞬時に締まって獲物を捕獲するものなのだそうだ。獲物が逃げようともがけばもがくほど非情にワイヤーは強く締まり、最悪の場合、脚がちぎれてしまう動物もいるのだとか。

三本足になってしまった動物を想像して顔を歪めるアキと七瀬をよそに、穂波は淡々と解除の仕方を説明した。曰く、ワイヤーを締めている短いパイプの根元のツマミを回すだけ。すると締まっていたワイヤーが緩み、脚を引き抜くことができるのだという。

七瀬がどうしてそんな事を知っているのかと問えば、穂波は趣味の温泉めぐりで色んな人に出会ったときに山道を歩くなら万が一があってはいけないと猟師から教えてもらったのだと笑った。

「わかった。パイプの根元のツマミ、ね!」

「気をつけてよアキ!」

七瀬の心配そうな声を背に、アキは熊を安心させるように何も持っていないと両手を挙げながらゆっくりと足を踏み出した。熊はグウ、と低く唸ってアキを睨む。

「怖かったね、もう大丈夫。わたしはあなたの味方だよ」

牙をむき出して威嚇していた熊は暫くアキを威嚇していたが、しばらくしてその牙を治めた。アキを見つめるその目が落ち着いているような気がして穂波と七瀬は驚く。

「信じてくれてありがとうね。すぐに外してあげるからね」

にっこりと笑ったアキは熊を怖がらせないよう一歩一歩近づいていく。熊はもう唸ることもなく、大人しくアキを見つめていた。

「大丈夫だよ。今助けてあげるから」

声をかけながらゆっくりゆっくり進んでいくアキ。

熊まであと三歩ほど、というところまで近づいたその瞬間。アキのすぐ側の茂みが大きく揺れた。

「ガアアアッ!!」

鋭い咆哮を上げ現れたのは大きな熊。おそらく母熊だろう、口からはよだれが垂れ、ひどく錯乱しているようだった。

血走る目がわが子に近づくアキを捉え、鋭く光る。わが子を守るために、木をなぎ倒すほどの力のある爪が振り上げられた。

「「アキ!!」」

離れたところから二人の悲鳴が上がる。

間に合わないとわかっていても、穂波と七瀬はアキを守ろうと地面を蹴る。

振り下ろされる爪に怯まず、アキは可愛い声を上げた。

「がおー、がおがおっ!」

アキの目前に迫った爪がぴたりと止まる。場に似合わない可愛らしい声に、思わず穂波と七瀬の足も止まった。

「がおがお、がおーぅ、がおっ!」

獣を模したその声は何を伝えようとしているのか。穂波と七瀬にはわからなかったが、その声を聞いた母熊は振り上げていた腕をゆっくりと下ろしていく。まるで言葉が伝わっているかのように。

「がおっ、がぅがぅがおーぅ!」

グルル、と母熊が小さく鳴いた。

アキの声に応えたのだ。

「がおぅがお、がぅがぅ!」

アキはしっかりと母熊の目を見つめ、獣を模した声を出す。母熊はすっかり落ち着きを取り戻し、仁王立ちしていた前足を地に着けた。それを見てアキはにっこり笑う。

「大丈夫だよ!」

全てをただ見ていることしかできなかった穂波は、感心したように息をついた。

「はー、すげェな。心を通わせちまったぜ……」

子が罠にかかって怒り狂っていた母熊を、こうもあっさり大人しくさせるとは。アキにこんな才能があるとは知らなかった。実家の温泉を継ぐよりも、動物園やサーカスの調教師の方が向いているのではないかとさえ思わせる。

「昔から動物との距離が近い子だったけど、こんな事ができるだなんて……」

幼馴染として小さな頃から一緒にいたアキの初めて見た姿に放心し、七瀬は弱々しくその場に座り込んでしまった。

そんな二人に構わず、アキは心配そうに見つめる母熊を元気付けながらてきぱきと子熊の罠を外しにかかる。子熊の脚を締め付けるワイヤーに繋がる短いパイプを見てみると、穂波の言っていた通り小さなツマミがあった。子熊の脚に食い込むワイヤーを動かさないようパイプをしっかりと手で握り、急いでツマミをくるくると緩める。

少しずつ緩んでいったワイヤーから、無事に子熊の脚を引き抜くことができた。

「やったぁ!」

自由になった子熊は跳ねるように母熊へとくっつき、母も子の顔周りをぺろぺろと舐めてやる。

「よかったね子熊さん、母熊さん!」

我が事のようににこにこと嬉しそうに微笑むアキに、熊はそろって「ガオ!」と鳴いた。

「はー、それにしても、アキの嬢ちゃんは半端ねェな!」

木々に囲まれるようにぽっかりと拓けた空間で、空を仰ぎながらしみじみと穂波が呟いた。ふわりふわりと湯気が舞い、踊るように葉が落ちてくる。

「ほんとね……さすがにあの時はアキが死んだかと思ったわ」

「えー何それ。人を勝手に殺さないでよぉ!」

ちゃぷんと湯を肩にかけながら七瀬が遠くを見、アキは心外だとぷんぷん怒ってみせた。自分がどれほどすごい事をしたのかを全く理解していないアキに、それも彼女らしいと思いつつも穂波は苦笑する。

助けてくれたお礼にと熊に秘境の温泉まで案内してもらうなんてこと、世界中で何人ができるだろう。時折動物番組で見る海外の動物と話せる女性だってできるかどうかわからない。それほどすごいことだというのに。

念願の秘境温泉に無事辿り着けたのは、あの熊の親子のおかげだった。

「でも、熊さんたちが無事でよかったね! やっぱり親子は一緒でなきゃ!」

「あんた、そんなこと考えてたの」

アキの生い立ちを知る七瀬は、アキがあんなにも罠を外したがった理由をなんとなく察してしまい、言葉につまる。

「そりゃそうだよ、家族一緒が一番! でしょ!」

しんみりした過去なんて欠片も伺わせない笑顔に、穂波はにかっと笑い返した。

「家族もいいが、友情もいいモンだよ! 今回はアキ、あんたのお陰で助かった。だがなァ、穂波さんをヒヤヒヤさせた罰は受けてくンねーとな!」

言うが早いか、穂波はばしゃんと大袈裟に湯を立ててアキの体をまさぐり始めた。

「きゃー! 穂波さん、何す、あっははははそれだめくすぐったい!!」

「こちとらお前さんが熊にヤられるかとヒヤヒヤしたんでィ、ちったア反省しろ!」

「ひゃはははは脇だめだってえあっはははは!!」

「おお、ここがええのか、あァ?」

「きゃーははは、やめてえええははははは!!」

穂波の擽りから逃れようと身を起こすアキ。どさくさにまぎれて穂波が大きなおっぱいをぽよんぽよん上下に揺すっているのを苦笑しながら見守っていた七瀬は、ふとアキの胸の下に痣ができているのを見つけた。

「あれ、アキ。ここ痣できてるわよ」

「え、どこ?」

「左胸の下あたり? ちょうどあんたのでっかいおっぱいで隠れちゃうところ」

「えー?」

ぎゅぎゅっとおっぱいを右に寄せて痣を確認したアキは、どこかでぶつけたのかなと首をひねる。黒子のようにはっきりした痣ではないし、痛みもない。そんなに気にすることではないかと放っておくことにした。

「はー、あっちィ」

そう考えたのもつかの間、悪戯をして満足げな穂波が体の熱を冷まそうと湯から出てタオルを手に取ったとき、アキはそのわき腹に小さな痣を見つけてしまう。

「あれ、穂波さんもここに痣できてるよ」

「へ?」

言われて初めて気づいたのか、穂波もアキの視線を辿って痣を確認し、首を傾げる。今にも消えそうなほど薄い痣だが、原因が全く思い当たらない。

「ぶつけた記憶はねェんだけどなァ」

「虫刺されとかです?」

「んにゃ、そんな感じの痣じゃねェっぽい。なんつーか、温泉マークみてエな……」

つ、と痣に指を這わせ、赤みや痛みがないかを確かめた穂波は、少し考えてにっと笑った。

「アキの嬢ちゃんとおそろいだな!」

「ほんとだね! 穂波さんとおそろいー!」

「痛くないの?」

「うん、全然! ほんと、穂波さんが言ったとおり温泉マークみたいだよね」

見ようによっては温泉マークに見えるその痣を気にするどころか面白がるアキは、ぎゅぎゅっとおっぱいを右へ寄せて確かめるように何度も触っている。顔を近づけ、同じようにまじまじとアキの痣を見る七瀬は、痛くないのならいいかと深く考えることはしなかった。

「温泉マークっぽい痣がわたし達二人にだけできてるの、なんだか特別な感じがするね!」

「なんだ、温泉レンジャーみたいな?」

「あっはっは、いいね! 温泉復興のために一肌脱ぎます、温泉レッド!」

「温泉のためならどこへでも、温泉ブルー! ってか?」

「ねえねえ、イエローとかグリーンとか探したいね! 誰か他に痣がある人いないかな?」

「そー簡単にいくかよ、だから特別なんだろ?」

ぱちんとウインクをしてみせた穂波に、アキがきらきらと目を輝かせた。

「そっか、そうだよね! 特別なんだもん! 温泉レンジャーは誰でもなれるわけじゃないもんね!」

「そうそう」

楽しそうな二人の掛け合いに疎外感を覚えた七瀬はぐぬぬと唇を噛み、勢い良く温泉から立ち上がる。

「私もちょっと痣作ってくる!!」

「待て待て待て、冗談だって七瀬、ハブにして悪かったよ!」

「未来の女優は肌に傷なんて作っちゃだめだよ七瀬ぇー! 七瀬は温泉ピンクにしてあげるからぁー!」

「温泉ピンクには痣がないとなれないんでしょー!?」

今にもそこらの木の枝で適当に肌に傷をつけて痣を作りそうな勢いの七瀬を二人がかりで止めながら、変な意地悪はするものじゃないなと反省した穂波とアキだった。しかし、この時、
七瀬は、自分の背中に同じような痣があった事は知る由もなかった。

「そ、そったごどがあったんだね……! わだすが一緒さ行ってだらアギぢゃんにおっかねえ思いさせねがったのに!」

「わたしは全然大丈夫だったよー、心配してくれてありがとう! 涼香ちゃんは何してたの?」

「わだすは従業員さんに頼んで、少すだげお仕事させでもらったよ。何もすねのは性さ合わねから」

「ええっお仕事してたの!? すごいね!!」

帰りのバスの中、隣に座る涼香に穂波と秘境温泉に行った話を聞かせると盛大に心配されてしまった。熊と遭遇するということはそれほど危険なことなのだが、アキはみんな心配してくれて優しいなあとしか考えていなかった。逆に、自由時間にじっとしていられなくて旅館の仕事の手伝いをしていた涼香は本当に偉いと思う。

「そえでね、あのね、疲れだはんでわんつか寝るべがなーって思うんだばって、アギぢゃんの肩貸すてもらってもいがな?」

「もちろん! 眠くなったらいつでも寄り掛かっていいからね! ゆっくり休んでね!」

「本当!? アギぢゃんありがとう!」

すぐさまこてんと肩に寄り掛かってきた涼香の頭をお疲れさまの意を込めて撫でてやると、「きゃ〜ん!」と嬉しそうに両手で頬をおさえた。

アキの隣の席を巡ってのジャンケンで涼香に負けてしまい、真ん中の通路を挟んで反対側の座席からアキと涼香の仲睦まじい様子を見ていた七瀬がふてくされたように「もう!」と肩をいからせていたなんて知りもせず、アキも大きな欠伸をする。朝早くから山道を歩き回ったおかげで少し疲れてしまった。バスの揺れが心地よい。

「あ~あ、もう混浴実習終わりかいな。もうちっと七瀬ちゃんの柔肌を拝みたかったんやけどなー」

「もう混浴の校外実習はやりまへんのですか、ゆかり先生?」

バスの前の方の席でから、男子生徒の思いを代弁したであろう八郎と二郎がゆかり女史に尋ねる声が聞こえてきた。

「校外実習を行うのは混浴学だけじゃないから次の実習はすぐに、とは言えないけれど、混浴学としての校外実習はあと1、2回はあるはずよ」

「うおおお、マジかゆかり女史!」

「また公然で堂々とアキちゃんのおっぱいを見られるんですね師匠!」

「せやな二郎!!」

「他のお客さんに迷惑をかけるようなことは二度としないでちょうだいね。それからセクハラもいい加減にしないとその元気なムスコを握りつぶすかもしれなくてよ?」

「「は、はいぃ……」」

ゆかり女史の脅しともとれる警告に、思わず「ヒエッ!」と息子を守った八郎と二郎。近くにいた男子生徒数名もつられて股間を守っていた。それを見て、男って本当にお馬鹿さんね、とゆかり女史はため息をつく。

「今でこそ混浴って少しエッチな響きが含んでしまうものだけれど、そもそも昔は、浴場ってあまり一般的なものでなくて、大きな湯船といえば天然の温泉がたまってできた露天風呂のことだったの。だから男湯、女湯なんていう概念なんて無くて、一つの露天風呂にみんなで入ってたのよ。その頃はふんどしとか腰巻とかを着用したまま入浴するのが普通だったみたいだけれど、江戸時代以降は裸で入浴するようになったっていう説があるわね。銭湯ができたのも、風紀の取り締まりの一環として混浴が禁止され、男女でお風呂を沸けるようになったのも江戸時代以降の話なのよ」

ゆかり女史の混浴についてのウンチクとバスの揺れが眠りを誘う。うとうととまどろみながら、ふとアキは窓から外を見た。

連なる山々のどこかで、きっとあの熊の親子はこれからも一緒に生きていくだろう。甘える子熊と、慈愛に満ちた母熊の瞳を思い出す。

「もう、捕まっちゃだめだよ……」

そっと呟き、アキは優しく手を引いてくる睡魔に大人しく身を委ねた。

つづく