【小説】東京テルマエ学園 第1章7話『 夜の歌舞伎町での乱闘騒ぎ! 』

「フランス人の、ケリアンっているじゃん? さっき偶然会ったんだけどさー」

アキがキッチンで七瀬に世話を焼かれながら食費節約の為に卵入りモヤシ炒めを作っていると、バイトから帰ってきた汐音が唐突に言った。

ケリアンはフランスからの留学生だが両親はチュニジア人で、浅黒のイケメンだ。その見た目からは想像もできないが、彼は重度のヲタクで、休日になっては秋葉原と中野に入り浸っている。

そこでの戦利品の中に某ゲームキャラクターの薄い本があり、それまで彼のファンを公言していたヲタクに詳しくない女子達はすっかり醒めてしまったようで、今や興味を持つのは同じヲタクくらいである。

アキは首を傾げた。

「ケリアンがどうかしたの?」

「学園長に直訴してフットサルクラブ作る許可取ったんだって!」

今年設立したばかりの東京テルマエ学園には、クラブやサークルの類は一切ない。学生が望まない限りは、そういった活動が行われることはないわけだ。

メンバーも集めなければならないし、慣例も何もない中から立ち上げなければならないとなると、なかなか大変だろう。

アキは感嘆の声を上げた。

「へー。凄いね。ケリアンってサッカー得意なの?」

「さあ。クラブ作っちゃうくらいだから、そうなんじゃない?」

「そっかー」

「それでね!」

汐音の声はやたら耳に突き刺さる。一番近くにいた萌と涼香が首をすくめて耳を塞いだ。そんな二人にお構いなしに、汐音はテンション高く続けた。

「だったら応援いりますけ、うちチアリーダー部作る! うちら八人のチームで学園長にお願いしとくけどいいよねー!」

真っ先に反発したのは部屋の片隅でストレッチをしていた優奈だ。

「はあ? 勝手に決めないでよ!」

「でもでも、部員三人以上集めれば公認して、学園長お金出してくれるって。お金かけずに好きなことできるんだから最高じゃない?」

「汐音はいいかもしれないけど私達誰もチアリーディングなんてできないからね?」

「問題なし!みんなはわたしが華麗に技を決めた時に笑顔でボンボン振って褒めて称えてくれればそれでいいよ!」

七瀬はつい頭を抱えた。

「いや、待って。チアリーダーの応援をするチアガールなんて聞いたことない」

「いいのいいの。細かいことは気にしなーい」

「あんたは少し気にしなさいよ!」

「あ、優奈興味ある? そうだよね、あるよね。チアガールって男にモテるしイイ男つかまえられるもんね。流石、分かってるぅ!」

「話を聞きなさいよ!」

床を強く叩きつけ、優奈は苛々と汐音を睨む。だが汐音はどこ吹く風で気にする様子もない。

「ってことはあと一人――あ、萌どう? 一緒にやらない?」

汐音の中では優奈の意思など関係なく、既に部員の一人としてカウントされているようだ。

急に振られた萌は『学園長がお金を出してくれる』という部分以外は汐音の話を聞き流していたようで、

「ハイハイハイ! それなら私はスケボー部作る!」

と、勢いよく手を挙げた。それはチアリーディング部よりも難しいのではないかと誰もが心の中で突っ込む。

「いやァ盛り上がってるねェ。けど、事はそう簡単にはいかねェだろうなァ」

お茶をすすりながら穂波が苦笑する。

「クラブ、サークル活動を認める報せは昨日の午後に公表されてたけど、学園掲示板はもうメンバー募集のチラシで埋め尽くされてたよ」

「そうなんだ、全然知らなかった。七瀬知ってた?」

「私も知らなかった。っていうか、クラブ活動とかあんまり興味ないし……」

アキも七瀬も全く見落としていたのだ。その点、穂波はしっかりチェックしていたようで。

「ざっと見ただけでも、三十枚以上はあったんじゃねェかィ。これ以上部が増えたら、部員争奪戦待ったなしだろうなァ」

「今年の新入生は百人……頭数で割ればひとつの部に三人しか部員が集まらないってわけね。掛け持ちでもしない限りは」

「掛け持ちしちゃダメなの?」

しゃきっとしたもやし炒めが完成したアキは、満足そうに七瀬に見せびらかした。七瀬がアキの頭をぽんぽんと軽く叩くと、嬉しそうにそれを頬張る。

「さあ……駄目とも言われてないし、前例も何もないんだから、好き勝手にやってもいいんじゃないの? アキは何かサークル作りたいの?」

「美味しいものを食べて、寝て、遊べるサークルなら入りたいなー」

「それはサークルじゃなくても別に……っていうか、それ、アキの願望じゃない」

「願望じゃないよ?願いだよ。部費出してくれるなら、そういうサークル作れば今後も生活に困らないなーと思って」

「願望も、願いも同じ意味。まったく、変なところで頭が回るんだから」

「だって、生活かかってるんだもん!」

アキは切実に叫ぶ。食費を節約するためにモヤシ炒めを作る日々にはもう飽きつつあったのだ。

そしてその日を境に、部員争奪戦が始まった。授業が終われば次から次へと部活勧誘とメールがひっきりなしにやってくる。美人の七瀬など同時に五人も六人も男子が群がってくる有様だ。何しろ生徒の半分以上が女子なのだから、女子を獲得しなければ部の立ち上げができないので皆が必死だった。

「七瀬ちゃん! 頼んます! お願い、助けたって!」

中でも痛ましいほど必死なのは大塩八郎だ。隙あらば七瀬に付きまとい、『総合化学研究部』(略して大塩総研とも言っている)に名前だけでもいいから入って欲しいと懇願するのだ。当然、七瀬はそんなものに興味はない。

足元に這いつくばって追い縋ってくる八郎のしつこさに、七瀬はついにキレてゆかり女史に苦情を寄せた。そして事務長からの通達があって、ようやく苛烈な勧誘合戦は終息したのだ。

八郎へは『部活のことで七瀬に近づくな』という勅命が下され、七瀬はようやく平和になったと安堵していたのだが。

そこは八郎、転んでもただでは起きない男である。

「このままでは七瀬ちゃんと縁が作れんわ。何か別の機会作らんと……」

ベッドに大の字になって横たわり、八郎は天井を見上げながら悔しそうにつぶやいた。女子の留学生組、ミッシェルとカトリーナ、そしてハンは八郎の誘いを受けて名前を登録してくれた。

話をして初めて知ったのだが、カトリーナはITエンジニアを目指していてアルバイトはシステムエンジニアのサポートをやっている。運動系の部活には興味がなく、AIに興味のある(単にAI=愛と言ってるのだが)八郎の誘いに乗ってきたらしい。

ミッシェルとハンは、単に八郎が面白いので入ってくれたようだが、そんなことはどうでもいい。

「そやけど一対一じゃ会うてくれへんしな……どないしよ」

八郎はベッドの上で座り込み、腕を組んで考え込んだ。

「そや。何人か誘って食事会か……いや、どうせなら合コンにしてしまえばええんや」

八郎は手を擦り合せてにやついた。

何とも諦めの悪い男である。不屈のメンタリティーにかけては学園一であることは間違いない。

後日、新たな掲示物が張り出された。ド派手でカラフルなデザインのそれは嫌でも目を引く。アキと七瀬も思わず立ち止まって読み上げた。

「サークル・クラブ活動発足パーティ……会費は女子が1000円、男子が4000円……参加者は1年C組大塩まで――って何これ」

二人が掲示板の前にいるところを見計らったかのように、八郎が金ピカの扇子を仰ぎながら背後に立った。

「あーそれな。お食事会やで。アキちゃん達も来るやろ? 皆来るー言うてるし」

「でも私達、どこのサークルにも入ってないよ」

「かまへんかまへん。細けぇことはええんやで。入学して1か月、親睦会の一つもあらへんのはおかしいやろ。大義名分はクラブサークル発足会やけど、何のサークルも入ってへん子もぎょうさん来よる。ほぼ全員参加みたいなもんや。ここで来ぉへんかったら、学園の方で強制的に応援部員に入らされるみたいやで、ミニスカート履かされチアガールさせられるの嫌なんとちゃう?」

八郎の勢いとウソに気圧され、アキはしどろもどろに七瀬を振り返った。

「えー、そうなの。どうする、七瀬。行ってみる?」

「私は、アキが行くって言うなら……」

「ほな、決まりやな!」

アキが何か言う前に八郎が勝手に話を纏める。また連絡するからと言って、張り紙を回収しそのまま嵐のように去っていった。

「あー。やっと来たよ」

新宿ナイアガラの滝広場では、穂波がミッシェルとハンを連れて待っていた。

「後は?」

七瀬が聞くと穂波は首を振った。

「こんだけ」

「え? 全員じゃなかったのー!?」

アキが言うと穂波は肩をすくめた。

「他はバイト。萌は何か用があって、涼香は来ないって……まあ、未成年は少ない方が良いかもね」

穂波がそう言うと、ミッシェルが何か英語でハンに囁いて笑った。

「ミッシェルは……成人?」

「オフコース」

アキが聞くとミッシェルは大げさに頷いて見せた。

「ワタシ、成人ナッタカラ。自由ニ飲メマース」

「ハンは、いくつだっけ?」

穂波が聞くと、ハンはにっこり笑って指を二本立てて見せた。

「ワタシ、フタチュデス」

ハンがとろけるような笑みを浮かべて体をくねらせた。

「えー! ハンもハタチなの?」

「マァーイ、女ナテ、二年」

これ以上話すとややこしいので、それ以上誰も年齢のことには突っ込まなかった。

5人は夕日に輝く高層ビル群の間を抜けて、八郎から指示された集合場所へと向かった。

アキと七瀬にとって新宿の街は未だダンジョンそのもので、穂波の案内がなければ即迷子だろう。

待ち合わせ場所は、歌舞伎町『新宿ぺぺ』の前で、遠くからでもそれと判る八郎のずんぐりした姿が見えた。その後ろに八郎とは対照的な細見長身の人影を発見したアキは、思わず呻いた。

「げっ……あいつもいる」

渡である。

アキはどうしても渡とはウマが合わないのだ。あの人を小馬鹿にしたような態度がどうしても気に入らない。

渡は穂波と七瀬の後ろに隠れるようにして近づいてきたアキに目を止め、揶揄うように言った。

「何だ、子ども連れで大丈夫か? ここから先は大人の世界だぜ」

――いや、私達同い年だからね。何知った風な口きいてんの――そんな七瀬のツッコミもこの二人を前にするとすっかり霞む。

アキは子犬のように吠えた。

「何よ! 誰が子どもだって言うのよ!」

「言わなきゃ分からないのかよ。お子様はランチでも食べてな」

アキがむきになって食い下がろうとするのを、七瀬はどうどうと宥めた。

「はい、そこのお子様二人。一緒にいるのが恥ずかしくなってくるから、もうやめて?」

有無を言わせぬ笑みで二人の間に割って入った七瀬を見て、渡とアキはそっぽ向いて黙り込んだ。

一方の穂波は八郎の周辺に視線を巡らせ、首を傾げる。

「そっちは? まさか二人だけ?」

穂波が聞くと、八郎があたふたと両手を振った。

「いやいや。もう先に行って、準備してまんのや」

「準備って、何の。私達手伝わなくていいの?」

「ええんや、これは男の仕事なんやから」

「ふーん……渡は手伝わなくて良かったの?」

「あ、あはははは……ええのええの」

疑問は尽きなかったが、よく分からないまま適当にかわされた。

張り切る八郎を先頭に予約してあったらしい個室居酒屋に到着すると「はいはい! 女性の皆さんは空いてる席に座ってや!」と、八郎が仕切り始めた。

対する七瀬は困惑する。

「空いてる席ってさ……」

すでに男性陣が席に着いているのだが、椅子は一つおきにしか空いていない。つまり嫌でも男子の間に座らなくてはならないのだ。

七瀬は八郎の位置を目の端で確認すると、即座に行動に移した。

「それじゃ」

八郎から一番遠い席を取ったのだ。

「えっ? 何っ? どういうこと?」

アキは七瀬と横並びとばかり思い込んでいたので、うろたえたあげくに男子二人に引っ張られて席に着く。

「謀ったの?」

渡の横で七瀬が毒づいた。

「文句は八郎に言ってくれ。俺だって無理矢理連れてこられたんだ。それにメンバー半分以上未成年だろ」

渡がテーブルの上に視線を落として答えた。

「あいつ、規則は破るためにあるって思ってるからな」

「自分は違うっていう口ぶりね」

七瀬の指摘に渡は苦笑する。

「飲み放題付きのコースやから、みんな好きなもん頼んでやー!」

楽しそうに声を上げた八郎に、渡は苦々しげな視線を投げかけた。

だが盛り上がっているのは八郎一人で、七瀬は仏頂面でそっぽを向きアキは目が泳いでいる。楽しそうにしているのはミッシェルとハンだけのようだ。

「いただきまーす!」

しかし料理が出ると、アキが眠りから目覚めたかのように活気を取り戻した。

「うお、アキちゃん。飲み物まだ来てへんのやで!」

「だって私、お酒飲めないし-」

八郎の制止よりも早く前菜の菜の花ベーコン巻きを口に入れ、もぐもぐしながらアキが答えた。

「先に言わなかったあんたが悪いよ」

苦笑しながら穂波が言った。

「しつけの悪い猫みたいやな」

「ウチのチロはお利口さんだよ! 変なとこで爪とぎもしないし」

「おうおう、そいつはお利口さんなニャンコやで……って、そーゆー話やない!」

スタートからグダグダ模様になってしまったが、飲み物と料理が出そろったところで八郎が声を上げた。

「ほな。サークル・クラブの発足お疲れ様、かんぱーい!」

場の雰囲気は別として、格好だけはようやく合コンらしくなり始めた。それぞれが隣り合った者と閑談をはじめ、七瀬の近隣もその流れに乗るように会話が始まる。

「何で温泉の学校になんて入ったんだ?」

慣れた様子で生ビールのジョッキを空けながら、渡が穂波に聞いた。

「温泉オタクで、銭湯の娘だから」

「それだけ?」

マグロのカルパッチョを取ろうとしていた穂波がトングを止め、そう聞いた渡に目を向けた。それからカルパッチョを取った小皿を渡の前に置く。渡が戸惑いながらちょっと頭を下げる。

「絶滅寸前の銭湯を、どうにかして生き残る方法を、ね……」

それから穂波は自分の分を小皿に取り、箸を持って首をかしげた。

「銭湯って、ここは温泉旅館やホテル経営学を学ぶ学校だろ」

「別になんだっていいんじゃない、うちの銭湯も大きくしていきたいしね」

その、二人の様子を複雑な思いで眺めていたのは七瀬だった。がさつなようでいて、穂波はちゃんと隣の人にも気を遣っている。

ひたすら食べているだけのアキは別として、ハンはまるでホステスのように両隣の男子に話しかけて世話を焼いている。

七瀬もそれを真似ようと手を動かしかけたものの、どのタイミングで何をすればいいのか分からない。

そのうち、七瀬の前に次々と取り分けられた料理が置かれるようになって、気を遣うのを諦めた。

やけくそのように料理を食べ、初めて注文したカシスオレンジをがばっと飲み込む。甘くて飲みやすく、とても酒とは思えない。そんな七瀬の様子を見て、渡を間に挟んで座る穂波が笑った。

「おお、いい飲みっぷりじゃねェかィ」

「これ、ジュースみたい」

「れっきとしたお酒だよ」

「そうなんだ……」

一度飲み始めたら止まらなかった。初めて飲む酒は美味しくて、一気に大人の階段を駆け上がったような気がした。

あっという間にグラスは空になる。そうなると物足りず、気が付けば七瀬はグラスを三杯は空にしていた。かなりのハイペースであったが、止めるものは誰もいない。

気分はすっかり高揚して、それまで話しかけようとも思わなかった渡の肩に何となく触れ、寄りかかった。

「渡ってさ、いつも何かとアキに突っかかるよね。さっきもそうだけど」

「違うだろ。どっちかっていうとあいつが先に突っかかってくるんだろ」

「ふーん。まあ、無視せず相手してあげるってことは嫌じゃないってことでしょ? アキってからかいがいあるし、そこが可愛いもんねー。おっぱいも大きいし」

「変な分析するなよ」

「照れるな、照れるな。パンツまで見た仲じゃないの。縞パン派じゃなくて、ちょっと背伸びした大人のパンツをはいたアキが見たかったってことは良く分かってるから」

「あのな、本当に違うからな」

「ごめんごめん。そういうことにしておいてあげる」

七瀬は楽しくなってきた。困った様子の渡の横顔が、どうしようもなく面白い。グラスはいつの間にか空っぽで、物足りなさそうにグラスを弾いた。

「星野、まさかもう酔ってるのか」

「いや、大丈夫。全然酔ってないから。――すみません、カルーアミルク下さい。あ、あとビールも追加で」

渡のジョッキが空になっているのを見てすかさず七瀬が注文する。いらないと断る間もなく、店員は行ってしまう。

普段見ている七瀬とはあまりにも違うので、渡は困惑しきりだ。どうやら酒が入ったせいで優等生バロメーターがぶっ壊れてしまったらしい。それに合わせて人との距離の取り方もすっかり忘れてしまったようだ。ふぅーとため息をつく渡に、七瀬は口を尖らせた。

「隣がアキじゃなくて、残念なんでしょ」

「別に誰でも同じだよ」

「あー嘘つきだ。私が隣でつまんないって顔に書いてあるぞー」

「そんなことないって」

そこで追加のビールとカルーアミルクが運ばれてくる。

「渡はさー、何でこの学園に入ろうと思ったの?」

「何でって……何となくだよ。そういう星野はどうなんだ。温泉旅館の娘なんだろ」

「そうだよ。渋温泉の春陽館。渡も今度うちに泊まりにおいでよ」

春陽館、と渡は口の中で小さく復唱した。聞き覚えがあったのだ。

「星野って、兄弟いるか?」

途端に七瀬のテンションが上がる。

「いるいる! ちょー美人で優しい、自慢のおねーちゃん! だからうちは将来安泰で、私は何となくこの学園に入ったってわけ」

「そうか」

「私はねー元々、女優になりたくて。東京に来られれば何でも良かったの。えへへー、動機不純でしょ?」

七瀬はふわふわとした楽しい心地で、カルーアミルクをぐいっと飲み込む。釣られるように渡もビールを飲んだ。

「分かった。あいつがいるからだろう」

「まあ、そうとも言うかも」

「別に、どうしても女優になりたいってわけでもなかったし。アキが行きたいっていうなら、私も行ってみようかなって思っただけ。他に特にやりたいこととか、得意なこととかないし」

「そうなのか? 星野は何でもそつなく出来ているって思うけど」

「あのさーそれってさ。何も出来ないのと、何が違うの?」

「は?」

「何でも出来るってことは、何もできないのと大して差がなくない? 一番だって胸を張れるものがないんだもの。私、アキがいなかったらただの優等生だよ? 空っぽなんだよ?」

今にも泣いてしまうのではないかと思うほど、大きな瞳が潤んだ。両手を組んで、その上に小さな顔を乗せる姿は大変愛らしい。

渡はため息をついた。

「よくそれで女優になりたいとか言えるな」

「言うだけならただでしょ? 本気でなりたかったらこんなところ来ないで、養成所とか通うわよ」

「まあ、そうだな」

「だからね、アキは凄いの。これって決めたら、何があってもそれに向かって突っ走って行かれるんだもん」

「突っ走れるのは、星野がいるからじゃないのか」

「え」

「星野がいなかったら、あいつどこにもたどり着けないと思う」

そんなことない。アキは七瀬がいなくともやがてたどり着けるだろう。

七瀬には心から信じられる友だちはアキしかいない。

だが、アキは違う

アキには、周囲を巻き込む力がある。そして臆面なく人と関わることができる。七瀬が持っていないものをアキは持っているのだ。

七瀬にはアキが必要だが、アキは――。

そんな思考をぶった切るように、渡が続けた。

「大体、何も出来ないのと、何でもできるのは全然違うんだぞ」

「そうかな」

「当たり前だろ」

「……そっかー」

七瀬はふと口元を緩め、小鳥が囀るように笑った。

その瞬間、渡を含め四方にいた男子たちが七瀬に釘付けになる。「はー可愛い、死ぬ」とか、「顔面国宝級」とか、そんなことを呟いていたとは七瀬には知る由もない。

2時間後、渡を除く男子たちはかなり良い気持ちになって店を出た。八郎は最初から最後まで変わらないテンションだが足元は少々危なっかしい。

「二次会行く人ー!」

「よっしゃ、次はカラオケ行くでぇ!」

「門限近いよー。またゆかり女史に叱られたいの?」

「ノリ悪いこと言わんと、今日ぐらいええやないかー。明日は休みやし、ちょっとくらい羽目外したかてゆかり女史も怒らへんわ」

「せやせやー」

時計を確認した穂波が声をかけるが、男子たちはすっかり盛り上がっている。

初めて飲酒をした七瀬は足元がおぼつかず、アキの方もべろべろに酔っている。

仕方がない、と穂波は女子組を連れて男子から離れる。しかし、数歩と行かないうちに知らない男のグループに囲まれた。

「ねえ、君たちどこ行くの? 一緒にこの後飲みに行かない?」

言っていることが八郎と全く同じなので、穂波が顔をしかめた。おまけにその6人は柄も良くない、どう見ても大学生には見えないし何か薄汚れた雰囲気が漂っている。穂波の見立てではまともな社会人ではない。

「もう帰るとこなの、ほかをあたって」

「いーじゃん、一杯だけでもいいからさー」

穂波がやんわり断っても男らはしつこく話しかけてくる。ミッシェルとハンまでが表情を曇らせている。

「迷惑だから、あっち行って!」

次第に穂波の声が大きくなった。穂波はアキと七瀬の肩を抱いて足早に歩きだす。

「はいはい、もうみんな帰るよ!」

「そんなに急いで帰ることないじゃん。てか、おねーさん達ちょー可愛いね。皆で楽しく飲もうよ」

と鼻にピアスを付けた金髪の男が、七瀬たちの顔を覗き込み、別の二人の仲間がアキに近寄って強引に手を引いた。

「そン子らに触ぁるんじゃねぇ!」

穂波の怒声でアキと七瀬の顔が引きつった。穂波の巻き舌が出るのは機嫌良く早口で喋るときか、そうでなければ恐ろしく機嫌の悪いときだ。今がどっちなのかは確かめるまでもなかった。

「ナメてんじゃねーぞてめェら! うちらに声かけるなんざ千年早ェんだよ! 腹ァ切って死んで生まれなおしてこい!」

「あらー、威勢がいいんだね、おねーさん。別にとって食うわけじゃないんだから、飲みに行こうって言ってるだけじゃん」

「なんでてめェらなんざと飲みに行かなきゃならねェンだ! 女と飲みたきゃキャバクラでも行けってんだ!」

「怒った顔も可愛いじゃん、強気な女って嫌いじゃないぜ」

穂波の怒声を前にしても、男達は全く引く様子がなかった。それどころか、にやにやしながら徐々に距離を詰めてアキ達を包囲していた。

「おげわぎゃが、おがが……」

アキはパニックになっていて、もう言葉にはなっていない。

「待て待て待て、ちょお、待っとくんなはれ!」

足音と関西弁が追ってきたので、穂波は顔をしかめた。

「兄さん方、その子たちワイらのツレや」

息を切らして走ってきたテルマエ学園の男子組が、男たちと向かい合う格好になった。

「何だお前ら、邪魔するんじゃねぇ!」

そう男に凄まれた八郎が、一瞬怯んだように身体を引く。唇をわなわなと震わせながらも八郎は頭を下げた。

「すんまへん、勘弁したってぇな兄さん……ワイらはもう帰らんとならんのや」

そう言って八郎は財布を取り出し、一万円札を何枚か抜き出して男の手に握らせる。

「まあこれで、どっかで……」

「はぁ? てめぇ、なめてんのか」

そう言いかけたところで、男の膝が八郎のみぞおちにめり込んだ。

「ぐへぇっ!」

うずくまった八郎はさらに蹴られて、ひっくり返って路上に大の字になる。女子たちから悲鳴が上がった。

さらに八郎を蹴りつけようと踏み出した男の足が止まった。臆することなく、その肩を掴んで止めたのは渡だ。

「やめろ。こいつは手を出してないだろう」

「なんだとこら!」

男は渡を突き飛ばそうとした。だが渡は上半身だけで受け流し、よろけもしない。ただ不適に笑い、男を見つめる。

「お前は俺に手を出した。あいつと同じようにぶちのめされても、文句は言えないな」

「何だとぉ!」

男たちが渡を囲むように動いた。

「やめて!」

「八郎を連れて、先に帰ってなよ。あとは俺が始末する」

穂波の声に、渡は表情も変えずに言った。馬鹿にされたと思ったのか、男が表情をゆがめて殴りかかった。

「あ……ああ……」

八郎を助け起こしていた男子たちが声を上げた。いきり立った男は渡に拳を繰り出すが、一発も当たっていないのだ。全員が唖然として見ているうちに、殴りかかっていた男の方が息を切らせて後退った。

「もう終わりか? 遅すぎて眠くなってくるぜ」

冷静な渡の声に、今度は二人が殴りかかった。

飛びかかってきた一人の足を払って転倒させ、前から乱れ突くように繰り出される拳は体をひねるだけでかわす。それから一歩踏み込んで、肩で相手を突き飛ばした。

「す……ごい……」

恐怖ですくんでいた七瀬がかすれた声を上げた。

「いいから今のうちに行けっ……」

渡が言いかけたとき、一人が背後からタックルをかけて渡の腰にしがみついた。

「この!」

渡が肩で突き飛ばした男が、余裕の薄ら笑いを浮かべながら渡の前に戻ってくる。

「チョロチョロ逃げやがって……」

そこで男は面食らったように止まった。渡をかばうようにして女が立ち塞がったのだ。――ハンだった。

「何だよ、嬢ちゃんが相手してくれるのか?」

相変わらず薄ら笑いを浮かべてそう言った男に、ハンは妖艶な笑みを投げ返す。

「トゥー、バイ、トゥー。マァーペンライ?」

『2対2、良い?』とハンは聞いたのだが、連中にわかるはずもなかった。渡は頷き、ハンの背中にこつんと拳を当てる。

「じゃあ、行こうぜ」

男がハンに手を差し出した瞬間に、鋭い音が響いた。男が数歩後ろによろけて地面に手をつく。

何が起こったのか全く分からず、数秒、周囲の時間が止まる。

「……え?」

「オーマイガッ……!」

「すごい……」

テルマエ学園の全員が目の前の光景に呆然とした。ハンの美脚が高々と上がり、男のこめかみにヒットしたのだ。

「アー、ミーパンハァー」

男がよろよろと立ち上がり頭を振るのを見て、ハンが悔しそうに呟いた。

「この……やろう」

男が殴りかかって来るのを、ハンは黙って見ていた。

「ハン! 逃げ……」

そう叫んだ女子たちにちらりと視線を向け、ハンは手でタイトスカートをぐいと引き上げた。パンストのランガードと、その下にオレンジのショーツが透けて見える。

「バカ! なにやって……」

今度はもっと大きな音が響いた。ハンはハイキックの姿勢で止まっていて、Tバックが露わになる。

全員が呼吸もできずに凍り付いていると、男が膝から地面に崩れ落ちた。ハンはその様子を無表情に見下ろしながら小さく首を振り、ゆっくり脚を下ろした。

「ソンナニ顎ノ骨、砕イテ欲シイノ?」

「あ、あ……」

呻き声を上げたのは渡の腰にしがみついていた男だった。這うようにして渡から離れて、変な格好で走って逃げはじめた。それを見て、他の男たちも一斉に逃げ出す。

「お前……」

渡がうめくような声を上げると、ハンは体をくるりと回して渡に向き直った。そして両手でスカートを引き下ろした。

「ムエタイか?」

「チャーイ」

猫の鳴き声のように答えて、ハンはとろけるような笑みを浮かべた。

「……あ、やばい!」

穂波が言ったときには、再び男たちがアキたちを囲んでいた。しかも人数が増えており柄の悪さにも拍車がかかっている。逃げ足は早かったが、戻ってくるのも早かった。

「だから……早く帰れって言っただろ!」

渡が苦々しく叱責する。

「おい。てめぇら、うちの若いもんを随分可愛がってくれたそうだな。ちょっと面貸しな。たっぷりお礼しちゃるわ」

リーダー格らしい男が言った。ガタイが良く、立端もある。隆々とする筋肉はいかにも屈強そうで、細身の渡や筋肉などなさそうなハンでは到底歯が立たないような風格があった。その後ろでにやけた面で控えているのは仲間を見捨てて逃げていった中の数人だ。先ほどは手ぶらだったが、今はその手に鉄パイプやバットなどの凶器を持っている。明らかにヤバいのは、刃物をちらつかせる連中だ。

しかしそんな状況にも拘わらず、渡とハンが怖気づく様子はない。

「足りねーぞ」

渡が低く呟いた。

「ああー?」

間抜けな声を出した男に向かって笑って返すと大きく一歩退いて、両の拳を構えた。全然知識がないアキや七瀬が見ても明らかにボクシングの構えだ。

「そんな人数じゃ5分と持たない。遊びにもならない。相手になりたきゃ100人連れてこい」

「アタシニモ、半分ヤラセテー」

「訂正する。200人だ」

「この野郎!」

怒声が飛び交い、男達は一斉に地面を蹴った。

渡は軽やかにステップを踏み、剛腕をいなして鋭く重い拳を次々と向かい来る相手に叩き込んだ。圧巻だった。パンチの軌道は見えない。拳を突き出す風圧だけが頬を掠め、次の瞬間には身体に多段ヒットしているのだ。それからはK.Oの嵐である。渡の前に立ちはだかるものは血の混じった泡を吹いて倒れ、路上は死屍累々の惨状と化し、ついに凶器を手にした軍団が動きかけた。

その時だ。通行人が叫んだ。

「おまわりさん、こっちです!」

「貴様ら、そこで何をやっている!」

騒ぎを見ていた誰かが通報したらしい。警察官が数人駆け付けてきた。

凶器を持った一団に若者が暴行を受けていると情報を受けていたため、警官は銃を所持して威嚇する。

苛立たし気に舌打ちし、主格の男が叫んだ。

「てめーら、ずらかるぞ!」

散っていく男達の数人は警官に捕まり、ついでに倒れる男達も無事警官に回収される。

「……事後処理は警察に任せよう」

穂波の提案に、誰も異議を唱えなかった。

強面の警察からの事情聴取を受け、未成年が飲酒をするなんてとこってり絞られたが、幸い今回は注意喚起だけで見逃してもらえた。それよりも、凶器を持つ相手に素手で立ち向かうなんて向こう見ずなことはもうするなとハンと渡は怒られた。

意識は取り戻したものの腰が抜けている八郎と、硬直しているアキを引きずって、テルマエの生徒たちはぎくしゃくしながら一同は慌ただしくその場を離れた。

七瀬は腰が抜けてしまって動けず、男子達は誰が七瀬を連れて行くか散々揉めたが酔った状態ではどうにもできず、見かねた渡が七瀬を背負う。

「……ごめんね、渡。重いでしょ」

小さく謝る七瀬は頼りない。全身を預ける七瀬の形の良い胸が背中に当たる。

身体は羽のように軽く感じたし、思いのほか柔らかい。それから、シャンプーのいい匂いが鼻腔をくすぐった。

渡は気を紛らわすかのように七瀬の身体を揺すって、背負いなおす。

「全然そんなことないから、気にすんな」

「……ありがと」

翌朝。大トラブルを起こしてしまった一同は戦々恐々としていたが、ゆかり女史からの呼び出しはなかった。その一方で週明けには学園中に様々な噂が駆け巡っていた。

『渡がチンピラ30人を殴り倒した』

『八郎がハンを触ろうとして逆にぶちのめされた』

なぜか『八郎がチンピラを殴り倒して女性陣を守った』など、どう考えても本人が流したとしか思えないようなデマもあった。

その当事者たちは何食わない顔で授業に出ていたが、ハンだけは体調が悪いと休んでいた。

アキたちが部屋に様子を見に行くと、ハンは足首に湿布を巻いていた。

「チョト、腫レマシタ」

ハンは決まり悪そうに笑った。

「骨とか、平気なの?」

「動カシタラ痛イダケ。歩ケマス」

意外なことに、ハンは男性当時、ムエタイの選手を目指していたのだと言う。

「ムエタイのスクール、タダ。プロにナタラ、スクールに……あー寄付、スル」

だから貧しい家庭の子供でも、ムエタイのトレーニングを受けることができると言うのだ。

学園の食堂で昼食を摂っていると、渡が男子数人とやってくる。

急にミッシェルが立ち上がり、渡に向かって英語の早口でまくし立てた。渡はミッシェルをちらりと見て肩をすくめ、そのまま男子達と別のテーブルについた。

「いま、ミッシェル何て言ったの?」

アキと七瀬がひそひそと言葉を交わす。

「マイケル・オルカーソンをヒットしたとき……どんな気がしたかって」

「マイケル・オルカーソンって、何のこと?」

皆が首を傾げると、ミッシェルは渋々ではあったが話はじめた

ミッシェルの父がラスベガスのホテルを使って、ボクシングフェザー級チャンピイオンのマイケル・オルカーソンに頼んでチャリティイベントを企画した。一人100ドルの寄付でオルカーソンを相手にスパーリングを体験できるというものだった。

「ミスタオルカーソンハ。誰カガ自分の顔面にヒットさせたら。10万ドル寄付スル言イマシタ」

その時。一人だけ本当に一発当てたのが、当時16歳の高校生だった早瀬渡だったのだ。

「昨日ノ夜のコト見て、思い出シマシタ」

「へー、あいつやるじゃん。ちょっと見直した」

「ちょっと?」

七瀬は笑った。

「だって酔っててほとんど覚えてないもん」

アキは初めての酒盛りで記憶がところどころ飛んでしまっていたのだ。だから本当に渡が助けてくれたと聞いても、いまいちピンとこない。何より、渡のアキへの態度は相変わらずだ。

「七瀬は覚えてるの?」

「私は……内緒」

七瀬は笑った。

「まあ、アキが思うほど渡って嫌な奴じゃないと思うよ」

「えー!」

幼馴染が渡をかばうような発言をしたので、がっくりとしたアキだった。

つづく