【小説】東京テルマエ学園 第1章6話『AVモデルにアルバイト!?』

「おねーさん可愛いね~! モデルでもやってるの?」

肩を叩かれてかけられた言葉に、アキは不思議そうに振り返った。隣にいたアキがとまったことに気づいた七瀬も後ろを振り向く。オフショルダーの服を着た綺麗なお姉さんが、アキを頭のてっぺんからつま先までまるで品定めするようにじろじろと見ていた。

テレビで見るような綺麗なお姉さんから可愛いと褒められ、アキはえへっと恰好を崩す。

「いやいや、そんなことないですよぉ。モデルなんてとてもとても!」

「どしたの、モデルが何?」

「わ、そっちのお姉さんもすっごい可愛い~! すらっとしててスタイル抜群じゃん! ねえお姉さん達さぁ、モデルとか興味ない? 好きな服着て写真撮るだけでお金いっぱいもらえるし、楽しいよ~」

大袈裟なほどに容姿を褒められて、七瀬も満更ではなさそうに結んでいる髪を後ろへ流した。『モデル』『お金をたくさん貰える』、その言葉を聞いてアキと七瀬の瞳がきらりと輝く。

「えっ、お金いっぱい!?」

「モデル……ってことは芸能事務所に入れるってこと!? ちょ、その話、詳しく!」

身を乗り出して興奮する二人にお姉さんが笑みを深めて教えてくれる。

今、街を歩く可愛い子に声をかけて、雑誌の写真撮影を行っているそうだ。アキ達も雑誌でそういう特集を組んでいるページを見たことがある。

すぐ近くにスタジオ代わりのトレーラーが停めてあり、アキたち同様声をかけられた女の子が集められていて、準備してある服の中から好みのものを選んで写真の撮影を行うらしい。着衣した服はそのままプレゼントしてもらえるそうで、服には限りがあるため、早い者順なんだとか。

「トレーラーで詳しい説明させてもらうから~、行ってみない? 他の子の撮影を見てみるだけでもいいし~」

可愛い子の撮影を観覧できると聞いて七瀬は興味津々だ。芸能界の一端をその目で見れるとあって、興奮ぎみにアキの腕を揺すった。アキも東京ならではの魅力的な誘いに興味を持たないわけがなく、七瀬と二人顔を見合わせて、お姉さんに是と返事をしようとしたのだが。

「ハイハイハイそこまで。すいませんね、この子らはそーゆーの全く興味ないんで、他当たってもらえます? 私らこれから行くとこあるんで!」

一人だけ先に進んでいた穂波が戻ってきて、アキとお姉さんの間に割って入る。

アキと七瀬の腕をしっかりと掴んだ穂波はお姉さんの顔を見ることなく、適当に断ってさっさとその場を後にした。どうして断ってしまったのだろう、と疑問に思ったアキだが、三人で行くところがあるのは確かだ。名残惜しそうな七瀬も穂波との約束が先だとわかっているのだろう、文句を言う事はない。

後ろで「何よアンタ!」と憤慨するお姉さんへ首だけ振り返ったアキは「ごめんなさーい!」と謝って、人ごみを足早に進む穂波に一生懸命ついていく。

ちらりと視線だけで振り返った穂波はお姉さんがついてきていないことを確認すると、二人の手を離し、ほんの少しだけ足の速度を落とした。

「あの話、本気にとりなさんなよ。ありゃァAVの勧誘だ、モデルとか良いこと言っといて事務所に連れてかれて、ろくな説明も無いままあちらさんの都合の良いように契約、気がつきゃハダカでカメラの前にポイさ。東京じゃァあーゆー勧誘ばっかだから騙されンなよ? あんたら声かけやすそうな見た目してっからなァ」

AVの勧誘、と聞いてぎょっとしたアキと七瀬は慌てて後ろを振り返ってみる。人ごみの影から少ししか見えなかったが、お姉さんはまた別の女の子に声をかけているようだった。「可愛い~!」と大袈裟に褒める甲高い声が微かに届いて、褒め言葉はリップサービスだったのかとアキはがっくり肩を落とす。

隣の七瀬も、女優志望と言いながら何度かオーディションに落ちている手前、芸能事務所に所属できるチャンスとあってつい冷静さを欠いてしまったようで、ホイホイ話に乗ってしまったことを後悔しているようだった。

「女のスカウトも増えてきてっから、騙されるオンナノコも増えてンだよ。あいつらもAV女優で、勧誘すんのも仕事のうちなんだろォが、女が女を地獄に落とそうなんざ世も末だね」

吐き捨てるような穂波の言葉に、アキも七瀬もぶるりと体を震わせた。もしも穂波が一緒にいなかったら、そう考えて顔色が悪くなる。本当に、東京事情に詳しい穂波がいてくれてよかった。

そもそもの発端は、汐音のわがままから始まった。

「東京見物がしたーい!」

テルマエ学園に入学し暫く経ったある日の休日、寮部屋のリビングで突然汐音が声を上げた。

「あたしたち、入学してからほとんど遊びに出てなくない!? 休みの日もみんな温泉に入るばっかりでさー、せっかく東京に来たんだから観光がしたいの!」

言われてみれば、確かにそうだ。せっかく素晴らしい温泉が無料で入れるのだからと、学校が休みの日でも特に出掛けることなく温泉に浸かったりサウナで汗を流したりと思う存分テルマエの湯を堪能していたアキたちは、汐音に言われて初めて学校の外へ出歩いていないことに気が付いた。

「みんな地方から出てきてるんだから、東京のことなんて誰もわかんないじゃん? だったら東京を知らない者同士、東京見物がてら仲良く遊びに行きたいなって思って! 誰か遊びに行かない!?」

汐音の声が大きすぎて、優奈の部屋からドンと壁を叩くような音がした。うるさい、ということだろう。リビングにまで出てこないのは、夜の仕事に向けて仮眠中だからだ。

アキは慌てて汐音に向かってしーと指を口に当ててみせたが、気づかない汐音は逆にアキへ指を差した。

「おっ、アキ行く? 遊びに行っちゃう!?」

「えっ、違うよ! 遊びに行くんじゃなくて、もうちょっと静かにしてあげてって意味で……」

「汐音の声が大きすぎて優奈さんが寝れないみたいよ。もうちょっとトーンダウンしてくれる?」

「えー、こんな時間に寝てる方が悪いんじゃん! ねー、アキも七瀬も圭もさー、遊びにいこーよー!」

ねえねえと肩をゆすってくる汐音にアキは両手を合わせて謝った。切実な話、金欠なのだ。親友のアキが行かないのならばと七瀬も汐音を袖にする。

残念がる汐音は圭に声をかけているが、そちらはそちらで何やらこの後、涼香とともにゆかり女史に頼まれた仕事があるらしい。優奈は仮眠中、萌は兄が出場する試合の観戦に行っている。

「誰も付き合ってくれないー! なんなのこのグループ、付き合い悪すぎじゃなーい!?」

甲高い声で汐音が地団駄を踏む。ドンドンと二度叩かれた壁の音が先ほどよりも乱暴になっているような気がしたアキは困った顔をして、そっとソファから立ち上がる。

部屋に戻り、鞄に入れていた財布を取り出して中を開けてみる。何度見ても、次におばあちゃんが生活費を振り込んでくれる日までぎりぎり足りないくらいの金額しか入っていない。

無理を言ってテルマエ学園に入学させてもらったが、本来なら客足の遠のいた渋温泉旅館には東京に出てこれるようなお金は無いはずなのだ。振り込んでもらえる生活費だって多くは無いけれど、おばあちゃんが何とか旅館の経営をやりくりして搾り出してくれたお金だ。これ以上おばあちゃんに金銭面で頼ることはできない。

だからアキは今財布に入っている金額だけで、次の生活費が振り込まれるまで過ごさなければならない。無駄な出費はできないから、遊びに行くような余裕も無かった。

「やっぱり遊びに行けるお金はないなぁ。本気でバイト探さなくちゃ」

様子を見に来てくれた七瀬に情けなく笑って、アキは財布を鞄に戻した。おばあちゃんに頼れないなら、自分で稼ぐしかない。

アキは自分の勉強机として使っているテーブルに置いたままのタウンワークを見た。いくつか付箋を貼って候補を見つけてはいるけれど、実家の旅館で手伝い程度の接客仕事しかしたことのないアキは、自分にバイトができるだろうかと不安でたまらない。

「アキは遊びに行きたい?」

「へ? そりゃまあ、行けるなら行きたいよ。汐音ちゃんの言うとおり、入学してから今までずーっと学園の中でしか過ごしてないもんね」

確かにテルマエ学園にはたくさんの施設が入っていて、学生価格で安いうえに楽しく長く遊べるのであまり気にしていなかったが、言われてみれば急に行きたくなるものだ。

冗談めかしながら遊びに行きたい気持ちを諦めようとするアキに、七瀬は仕方がないなと肩をすくめた。

「はぁー、しょうがない。今日は私が出してあげるから、遊びに行こっか」

「……え!? い、いいよ、七瀬だってお家の人から貰ってる生活費でしょ? 大事に使いなよ!」

「あんたよりは多くもらってるからいーの。私も東京見物行きたいけど、アキがいないとつまんないし。おごりなのが気がひけるなら貸しにしてあげるよ。バイトして、お給料出た時にでも返してくれたらいいから」

「ええ、で、でもぉ……」

思ってもみない七瀬の申し出にアキはおろおろと視線をさ迷わせた。

七瀬が東京見物に行きたいという気持ちも、親友のアキがいないとつまらないという気持ちも本音だろう。けれど七瀬の実家も昔と比べたら客足が少なくなっていて、七瀬の生活費を捻出するのも一苦労ではないだろうか。それなのに七瀬のお金をアキが遊ぶためだけに借りていいものか。

「とーきょーけんぶつ、いーきーたーいーー!!!」

開けたままの扉から汐音の大きな声が入ってきて、悶々と悩んでいたアキはきょとんと目を瞬いた。バシンと何かが壁に叩きつけられるような音が続いて、優奈の怒りの度合いがますます上がっていることを知る。

顔を見合わせるとなんだかおかしくなってきて、アキと七瀬はぷっと吹き出した。

「ほら、汐音が待ってるわよ。いい加減優奈さんも限界みたいだし、行ってあげようよ」

「うーん、じゃあ、今日だけ甘えさせてもらおっかな。バイトしてお給料もらったら倍にして返すからね!」

「倍にしなくていいから、あんたは早くバイト先決めなさいよね」

「うぐぐ、仰るとおりでございます……」

リビングへ戻り、床に突っ伏してふて腐れていた汐音に行けそうだと伝えると「ヤー!」と歓声を上げ文字通り飛び上がって喜んだ。

すぐさま自分の部屋に取って返しガイドブック片手に戻ってきた汐音だが、ここで着信音がリビングに響く。それは汐音のスマホからで、元気よく電話をとった汐音だが、話せば話すほど沈んだ表情へ変わっていく。

電話を切ったときには先ほどの元気はどこへやら、身内に不幸があったのではないかと心配になるほどに落ち込んでいた。

「ごめんアキ、七瀬。バイト入っちゃった……」

東京に出てきた汐音は、高校の時のダンス講師のツテでダンススクール講師のアルバイトを見つけていた。この日はアルバイトを入れていなかったのだけれど、本日バイトに入っていた子が急な発熱で休んでしまったそうだ。他のアルバイトにも声をかけたそうだがみんな予定が入っていてつかまらず、シフトに入っていなかった汐音に話が回ってきたらしい。

東京見物とアルバイト講師の代役。どちらに比重がかかるのかは言うまでもない。汐音との観光はまた今度だ。

「うわああん、行きたかったのにー! 最悪! でも熱が出たんじゃしょーがないもんね! ごめんねアキ、七瀬、今度一緒に観光行こうねー!!」

言いながらバタバタと走り回って準備をし、その騒音に我慢ができなくなった優奈がついに「うるっさいのよ!! 結んでる髪、引き千切るわよ!!」と声を荒げ、それに「ごめんごめーん!」と軽く返した汐音はあっという間に寮から飛び出していった。

「嵐のような奴だなァ」

ドラマに出てくるヤクザが持っていそうな金ぴかのクラッチバッグを手に、部屋から戻ってきた穂波がけらけらと笑う。

「さァて。んじゃ、私らも行こうか」

「え? 行くの?」

「なんでェ、汐音がいなけりゃ遊びに行けねェってこたァないだろ? せっかくのいい機会だ、田舎育ちの嬢ちゃんたちにこの穂波さんが東京ってェもんを教えてやろうじゃないの」

ぱちんと茶目っ気たっぷりにウインクされて、アキと七瀬は喜んで頷いた。

「穂波さん、よろしくお願いしまーす!」

そうして穂波がつれていってくれたのは、浅草だった。東京といえばまずはここさ、と案内してくれた穂波の選択は間違ってはいないが、観光地として有名で、更に休日とくれば、観光客も多数訪れるというもので。

テレビ越しではない本物の雷門に感動はしたものの、雷門の前は国内外問わず様々な観光客がいて、写真を撮ったり景色を眺めたりと大賑わいだった。

アキも七瀬も、人の多さに圧倒された。長野にいた時は、こんな人が溢れるような状況は体験した事がない。東京に到着した時、新宿に着いた時も人の多さに驚いたものだが、今の浅草の比ではなかったと思う。

慣れたようにすいすいと人波の間を進んでいく穂波を見失わないように、アキと七瀬は手をつないで必死についていく。その途中で、突然アキの脛に何かががつんとぶつかった。

「いったー!!」

「ちょっと、どうしたの? 大丈夫?」

あまりの痛みに涙がにじむ。思わず立ち止まったアキへ七瀬が心配そうな声をかける。同時に、横から怒っているかのように威勢よく話しかけられた。

驚いてそちらを見れば、中華系の女性がベビーカーを押してアキを睨みつけていた。もしかして、アキの足にぶつかったのはそのベビーカーだろうか。痛いはずである。

「如果你在这样的地方,那就太麻烦了! 哦,你不知道你的抹茶冰淇淋店吗?」

「え、え、何!?」

「し、知らないわよ。中国語?」

突然の外国語――恐らく中国語と思わしき言語で言い募る女性にアキは気圧されて後ずさる。七瀬に助けを求めるが、両手をぶんぶん振って拒否された。女性は空いた距離をつめ、アキの顔を見下ろすように顎を上げて言葉を続ける。

「什么,你是日本人。如果你认识你喜喜!」

「ひええ、の、ノー! アイキャントスピークジャパニーズぅぅ!」

「アキ、あんたまた間違えてる……」

「你在说什么? 多么愚蠢的日语不会说中文? 那太好了!」

怒涛の勢いで喋っていた女性はフンと鼻を鳴らし、ベビーカーを猛スピードで押しながら去っていった。七瀬と二人、呆然とその姿を見送りながら、東京っていろんな人から声をかけられるんだなあとアキは東京のグローバルさを改めて感じる。

そういえば東京へ来たばかりの時も、英語圏の外国人に話しかけられたことを思い出す。あの時も同じようにへんてこな英語で返したような気がする。アキの英語は全く成長していない。そう実感して、アキは少し落ち込んだ。

「おーい、大丈夫かーい?」

ふいに遠くから穂波が二人を探す声が聞こえた。慌ててその声を頼りに、また人波をかき分けて歩いていく。暫く進むと少し開けた場所で穂波が待っていた。

群集にもみくちゃにされたアキと七瀬を気遣い、次は下町グルメにしようかねと穂波が言う。目を輝かせたアキに笑って、穂波は指を折りながら案を上げていく。

下町の洋食屋、昔ながらの中華料理屋、どぜう、カフェではない昭和から存在する喫茶店、代々味を引き継いで守り続けている和菓子屋。どこも一押しだとの穂波の言に、アキと七瀬はどこにしようかうんうん迷う。

迷いに迷った末、運よく入ることが出来たどじょう料理の店で定食を食べ、更にお土産として煎餅屋に寄った。大正時代に創業したという、浅草の中でも最も古い煎餅屋。揚げたての煎餅を食べさせてもらったアキと七瀬は幸せそうに頬をおさえ、それを見た穂波は満足そうに頷いていた。

それから移動した先は、表参道だ。表参道、と聞いてアキと七瀬は手を取り合って喜んだ。雑誌やテレビでオシャレスポットとして紹介されるたび、一度でいいから行ってみたいと憧れていた場所である。

観光客は多かったが、浅草ほどではない。雰囲気も落ち着いていて、なんだか『大人』の街だなぁとアキと七瀬はうっとりする。

迷子になるなよと笑う穂波に、さすがに迷子にはならないよと返す七瀬の横で、アキはきょろきょろと忙しなくあちらこちらへ視線をうつす。歩いていて目に入るのは『グッチ』『ルイ・ヴィトン』『ディオール』『ソニア リキエル』『ハリー・ウィンストン』といったブランドの名前に、見るからにお洒落な店構え。

「わぁ、オシャレなお店がいっぱい……! あ、あのカバンかわいい!」

好みのバッグを見つけたアキは思わず店先に駆け寄って、ショーウインドウで飾られているマネキンを見つめる。腕にかけるタイプの小さなバッグは桜色で、バッグの留具には大きなDの文字。まるで自転車のサドルを思わせるころんとした形がとてもアキ好みだ。

ショーウインドウに手をついてうっとりと商品を見つめるアキは、ふいに視線を落として値段タグを確認する。そこには数字がいち、に、さん……。

「ひぇっ、さんじゅうろくまんえん……!」

値段が高いにもほどがある。バイトをしたとしても、ひっくり返っても買えない額だ。驚愕でよろめきながら、アキはそうっとショーウインドウから離れた。

「うう、東京こわい……。なんでカバンが三十万円もするの、長野なんて千円あったら可愛いバッグ買えたのに……。これが東京の洗礼ってやつなのか……」

ぶつくさ言うアキだが、長野にもお洒落でお高い店はちゃんとあって、アキの行きつけだった店は学生向けの値段が安くて可愛い小物の店だったのだと補足しておく。学生向けの店とブランドを取り扱う店を比べてはいけない。

勝手に東京の洗礼を受けた気になって打ちひしがれながら戻ってくるアキ。ブランド物は社会人になって自分で給料を貰うようになってからのお楽しみだな、と慰める穂波に七瀬もうんうんと頷いた。

すると遠くから何やら音楽が流れていることに気づく。なんだろう、と足を止めるアキは、少しずつ近づいてくる音楽に耳を傾ける。一度聞いたらなかなか頭から離れないこの音楽は――。

「ワーニラ、ワニラ、ワニラでバイト!」

「ああ、あの歌のやつ」

可愛らしくピンクの外装でまとめられ、デフォルメされた女の子のイラストが目を引く求人の街頭宣伝カーだ。歌舞伎町でもよく走っていて、テルマエ学園での授業中に窓を開けていると目の前の道路を宣伝カーが通りかかり、大音量で教室へ流れてきた音楽につられて生徒たちがつい口ずさんでしまい、ゆかり女史から雷を落とされたのは記憶に新しい。

宣伝カーのポップな外装を見ていたアキは、思いついたようにぱちんと両手を打ち鳴らした。

「決めた! わたし、ワニラでバイト探す!」

「はァ? アキ、それがどういうことか分かってンのかい?」

「ほら見てよ、高収入求人情報数ナンバーワンだって! わたしお金無いし、バイトするなら高収入の方がいいじゃん! ちょっと行ってくるね!」

ワニラがなぜ高収入なのかを勿論知っていた穂波は、アキが冗談でそう言っているのだと疑っていなかった。だから突然走り出したアキに驚き、止めようと伸ばした手はアキを捕まえることができなかった。七瀬もワニラのことを知らないのだろう、穂波が止めようとしたのを不思議そうに見ているだけ。

穂波は慌ててアキの後を追いかけるが、アキが宣伝カーへ近づくほうが早そうだ。

「すいませーん、ワニラの人ー!」

アキは信号待ちで停まっている宣伝カーへ向かって走る。運転手に声をかければタウンワークのようなバイト雑誌を貰えるんじゃないかと、軽い気持ちで。

助手席に座ってスマホをいじっていた男性が近づいてくるアキに気づいた。信号が変わりそうだと判断したアキは、大声を上げて宣伝カーに停まってもらおうとしたのだが。

突然腕を捕まれて、驚いたアキは足をとめてしまった。

「やめといた方がいいよ」

振り返れば、どこか野生的な顔つきで髭を生やした、細身の若いお兄さんが立っていて、心配そうにアキを見下ろしていた。シンプルな白シャツにぴったりとしたグレーのパンツが長い脚を強調させ、軽やかに羽織った海色のカーディガンがお兄さんの爽やかな雰囲気を醸し出している。

いかに相手が爽やかお兄さんだろうと、知らない男から突然腕を捕まれたアキは怖がって肩をすくめた。

「あの、どちら様ですか……?」

「ああ、ごめん。ただの通りすがりの者だけど、君が何も知らずにワニラの人へ声をかけようとしてるように見えたから」

離された手を胸に抱いて知らないお兄さんを前に困っていると、ようやく追いついた穂波がアキの頭をぺちんと叩いた。がさつなようで実は優しい穂波に叩かれたのは初めてで、アキはぽかんと口を開けたまま穂波を見つめる。穂波は目を吊り上げて怒っていた。

「バッキャロー! アキ、おめェワニラが何の求人か知ってンのか!?」

「え、え? 何って、普通の求人でしょ?」

「ンなわけあるかァ! ワニラはなァ、風俗専用のバイト求人なンだよ! フツーのバイトが高収入謳ってるわきゃねエだろうが! ちったア考えて行動しやがれこのド天然娘!!」

「えっ、そうなの!?」

あんな可愛らしい外装なのに、風俗求人とは。思いもしなかった求人に、自身の行動を思い返して血の気が引く。よくわからないまま追いかけてきた七瀬も状況を把握し、顔色を青くした。

穂波の剣幕から察するに、あのまま宣伝カーの人に声をかけていたら大変なことになっていたに違いない。アキは慌てて穂波と、引き止めてくれたお兄さんへ頭を下げた。

ふう、と自身を落ち着かせるように一息ついた穂波は、隣に立つお兄さんへ向き直る。

「兄さん、この天然娘をとめてくれて助かったよ。あのまま行けば、ちょいと面倒なことになってたはずだ」

「間に合ってよかったよ。歩いてたら君らの会話がちょっと聞こえてしまってね、まさか本当に声かけに行くとは思わなくてさ。もしかして東京初めてかい?」

「この子らはね。私はこっちが地元」

「そっか。東京はテレビで見るような綺麗なことばかりじゃないから、気をつけてね」

軽く手を上げて踵を返すお兄さんとなぜだか別れ難く、アキは思わず手を伸ばす。捕まえたカーディガンを優しく引いて、足をとめてくれたお兄さんへもう一度頭を下げた。

「あの! 本当にありがとうございました! あの、あの、何かお礼をしたいんですけど!」

「いや、気にしなくていいよ。俺がお節介焼いただけだし」

「でも助けてもらったことは事実ですし、うちは助けてもらったらきちんとお礼をするようにって育てられたので! 何かお礼をさせてください!」

珍しく身を引こうとしないアキの様子に、穂波と七瀬は「おやおやぁ?」とにんまり笑って顔を見合わせる。後ろで微笑ましく見守られていることに気づいていないアキは、お兄さんのカーディガンを離そうとしない。自分から積極的に関わろうとするアキに、首の後ろに手を当てたお兄さんは考えるように宙へ視線を泳がせる。

「んー、そこまで言われちゃうと……そうだなあ。すぐそこに俺がバイトしてる喫茶店があるんだけど、よかったらお茶でもしていってよ。珈琲一杯分、売上に貢献してくれたらそれでいいからさ」

にっこり笑顔で提示された内容に、アキが元気良く返事をしたことは言うまでもないだろう。

地元はどこなのか、どうして東京に出てきたのか、テルマエ学園の評判、友達はできたか等お兄さんと他愛の無い話をしながら暫く歩いたところに、お洒落な喫茶店があった。

「ここが俺のバイト先だよ」

そう言って扉を開けてくれたお兄さん。入ってみると、レンガの壁に木のテーブルとチェアを組み合わせた店内はどこか温かみがあって落ち着いている。テーブルの間隔も広すぎず狭すぎず、板ではなくあえて梁を見せるような天井は高さがあって開放感もあり、ついつい長居してしまいそうな雰囲気があった。

テーブル席には何人かのグループやカップルが座っていて、カウンター席には一人客が珈琲片手にスマホを見たり持参したパソコンを触ったり本を読んだりとのんびり過ごしている。

カウンターでは四十代ほどの男性がグラスを磨いていて、お兄さんを見るとひらひらと片手を挙げてみせた。

「マスターお待たせ。お客さんだよ」

お兄さんに空いたテーブルへ案内され、疲れただろうからとお冷まで出してもらった。ありがたくお冷に口をつけながらお兄さんを視線で追うと、一度カウンター奥のバックヤードへ消え、羽織っていたカーディガンを脱ぎ、黒のカフェエプロンをつけて戻ってきた。その姿がとても格好良く見えて、アキはつい見蕩れてしまう。

「さて、注文はお決まりですか?」

向かいでアキの様子を楽しそうに見ていた穂波がメニューを七瀬の方へと寄せた。

「兄さん、私アイスコーヒーとオレンジのブリュレね」

「じゃあ私はアイスティー、ストレートで。それとグレープフルーツのショートケーキ。アキは?」

「え、待って待ってメニュー見せてよぅ!」

お兄さんを見てばかりいたために注文するものを全く決めていなかったアキは焦りながらメニューを開いた。ゆっくり決めていいからね、そう笑ったお兄さんは手際よく注文された品物の準備を始める。マスターと呼ばれた男性もにこにこと笑みを浮かべながら、カウンター横のショーケースへとケーキを取りに行った。

メニューには色とりどりのスイーツの写真が載っていて、あまりの綺麗さにほうっと息をつく。

「わぁ、どれも美味しそう……!」

「おススメは季節限定のグレープフルーツのショートケーキと、メロンのタルトかな」

珈琲のいい香りを漂わせながらお兄さんがくすくす笑う。ケーキのショーケースを仰ぎ見て、アキは力強く頷いた。

「じゃあメロンのタルトとアイスティーください!」

「はい。かしこまりました」

来れなかった汐音のことやワニラの件で三人でおしゃべりをしていると、ほどなく注文したものが運ばれてきた。

アキの前に出されたのは、丸くくり抜かれた果肉が可愛く並べられ、真ん中にブルーベリーとミントの葉がちょこんと乗ったメロンタルト。その可愛らしさにアキと七瀬は思わずスマホを取り出して写真を撮る。二人を微笑ましげに見つめた穂波はスマホを取り出すこともなく、ゆったりとアイスコーヒーへ口をつけた。

満足がいくまで写真を撮ったアキは、メロンタルトにフォークを入れた。頬張ったタルトは口いっぱいにメロンの甘みと生クリームの甘みが広がって、うっかり風俗求人で働く人へ声をかけようとしたお馬鹿な行為を忘れさせてくれるようだった。

「そうだマスター、今日のバイトの子は? もう一人いただろ?」

「ああ、あいつなら辞めたよ」

「ええ? この間入ったばっかだよな?」

「最近の若いモンは叱られたらすーぐ辞めちまうからなぁ」

「そっかー。なら、またバイトの募集かけるんだろ? 今度はしっかりした子を雇ってくれよ、俺も毎日は入れないんだから」

カウンターでの話し声に、アキはタルトを食べる手を止めた。

この素敵な喫茶店で、バイトを募集しているらしい。助けてくれたお兄さんとマスターが人手が足りなくて困っている。そして、アキは金欠だ。思いつくのは一つの案。

「あの、バイト募集するなら、わたしバイトできませんか……?」

「え?」

そろりと手を上げてみると、お兄さんとマスターがこちらを向いた。穂波と七瀬もケーキを食べる手をとめて驚いたようにアキを見る。

お兄さんは首の後ろへ手をやって、困ったように笑った。

「さっきのことなら注文してもらったんだし、もう気にしなくていいんだよ?」

「いえ、あの。わたしさっき、本当にあれが何の求人か知らなくて。危ないところだったんだって反省してます。でもバイトをしたいのは本当ですし、タウンワークも見てるけど、その求人だってちゃんとした会社かどうかわからない。もしかしたらバイトを使い潰すようなブラック企業かもしれないし。そう考えたら、わざわざ知り合いでもないわたしを助けてくれた常識人なお兄さんが働いているこの喫茶店は、ブラックとか全然ない、いいお店だと思うんです! だから、ここで働かせてもらえませんか?」

立ち上がり、手をぎゅっと握って力説するアキに、お兄さんは考えるように視線を宙へ向け、マスターへ振り返る。

「うーん。どうするマスター?」

「そうだなぁ。とりあえず、ブラック企業だとイヤだからっていう理由でこの店を選んだ、その正直な性格は美点だァな。お嬢ちゃん、どこか飲食店でバイトしたことあるか?」

のんびりと髭を触りながらマスターが尋ねると、アキは力強く頷いた。

「はい。実家が温泉旅館で、いつもお手伝いしてました!」

その言葉に、マスターは満足そうに頷く。

「そうか、接客の経験有りか。なら、明日履歴書持ってきてくれ」

「は、はい、ぜひ! よろしくお願いします!」

勢い良く頭を下げたアキへ、話が聞こえたらしいカウンター席のお客さんがぱちぱちと拍手で応援してくれた。嬉しそうに笑ったアキは、ちゃっかり「採用されたらよろしくお願いしますね!」とアピールしている。

お金がないと聞いていたものの実際にアキがバイトをするのは心配だった七瀬は、常識人なお兄さんのいるこの喫茶店ならアキも大丈夫だろうと胸を撫で下ろした。穂波は、助けてもらったんだからしっかり恩を返すんだよとアキの肩を叩いて鼓舞している。

「マスターのあの様子じゃほぼ採用だろうから、履歴書もそこまで真剣に書かなくていいからね。一緒に働けるの、楽しみにしてるよ。道がわからなくなったら店に連絡してくれ」

お兄さんは喫茶店の電話番号が書かれたメモをアキにくれた。大事そうに受け取って、お兄さんが他のお客さんへ注文を取りにいくのを目で追いかけるアキは、穂波と七瀬が顔を見合わせて「アオハルだねェ」とにまにま笑っていたなんて気づくことはなかった。

後日、喫茶店のマスターと面接に挑んだアキは緊張して言葉を全部噛んでしまったが、無事に合格することができ、晴れて喫茶店でバイトをすることが決まった。

ちなみに、合格した理由は。

「うん? いい乳をしていたからな」

マスターが満足そうに頷いていたなんてアキには絶対言えないな、とお兄さんは困ったように笑っていたのだとか。

つづく