【小説】東京テルマエ学園 プロローグ

眩いばかりの舞台の上は、裏方から見ると余計にきらきらして見えた。
観客席の人達は期待の眼差しでその場所を見ている。
――彼らは、待っているのだ。
見る限り空席はない。満員御礼の舞台。
――私たちの為の舞台だ。

「皆、準備はいい?」
「やばーい、今になって緊張してきたかも」
「おら、おしっこ漏れそうだす」
「だいじょーぶ、いつも通り行こう!」
「私達が楽しんでいれば、お客さんも笑顔になるってこと」

円陣を組み、互いの顔を見合わせる8人の少女達。
不安と期待でいっぱいで、肩を組む手は汗ばんでいる。同じ思いを共有した大切な仲間達、笑って、泣いて、色んなことがあって、ここまで来たのだ。
アキは、感慨深げに皆の顔を見回した。
たまたま、同じ部屋に割り当てられた8人が、まさかアイドルになるなんて――。
皆とここまで来られたことが、未だに信じられない。
まさかポンコツ天然の私に、本当についてきてくれるなんて。
この8人でよかった。本当に。
くすりと笑うと、幼馴染の七瀬もつられて笑う。

「アキ、あんた、緊張感なさすぎだし。思ったこと全部口から出てるって気づいてる?」
「へ?」
「まあ、そんなポンコツ天然だから、皆文句言いながらもついてくるのよね」

少女達は腕を高く掲げて、順々にハイタッチをする。パンッと乾いた音が鳴り響いて心地いい。
ゴールデンマイクを片手に、アナウンサーが実況を続ける。

「――さて、このアイドル甲子園2020もいよいよ最終局を迎えようとしております。ファイナリストに残ったのはこの二校。中国からの刺客、【火炎少女109】、その実力は折り紙付き。その対抗馬はまさかの! 【温泉アイドル】であります。一風変わった芸風ではありましたが、ここまで上り詰めてきた実力者には違いありません。ダークホースと言われ続け、まさかまさかの大躍進! それもそのはず、美少女揃い、ひと肌脱げばもう、間違いありません! 歌って踊るだけがアイドルじゃない、全世界の人たちに温泉の魅力を知ってもらおう、その一心で突き進んで参りました。さあ、満を持しての登場です。
東京テルマエ学園【ムーラン・ルージュ】!!!」

客席からは割れんばかりの拍手と大歓声が上がった。それぞれの推しの色を灯したサイリウムの光が暗がりの客席を照らしている。

「よし。皆、行こう!」

少女達は光の中へ溶けていく――。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

けたたましくなる目覚ましを止め、アキは寝ぼけ眼を擦って起き上がった。
毎日同じ時間に起きて、朝食を食べ、バスに乗って学校に行く。それはあまりにも当たり前のことすぎて、そんな日々が延々と続く――去年の秋までは将来の展望もなく、漠然と実家を手伝うものだと思っていたのだ。

しかし、それも今日で終わりを告げる。
身支度を整え、膝丈の、春らしいピンクのワンピースの上に、この日の為に新調した白いトレンチコートを羽織る。今は肌寒いが、きっと向こうに着けば丁度いいのだ。
雀が窓際の枝にとまり、軽やかに囀った。

「うーん、おはよー。何か今日は一段と変な夢だったよぉ……」

それに答えるようにもう一度囀って、雀が山際へと飛び去っていく。折り重なるように連なる峰には深雪が積もり、春は未だ遠いのだと主張している。
窓から見えるのは、アキの故郷――渋温泉の街並みだ。山間の河川沿いにある小さな温泉街は、長野県北部にある有数の温泉地である。そのメインストリートには石畳が敷かれ、通りを歩くとノスタルジックな土産屋や旅館が林立する。冬は雪に埋もれて静まる街並みに、九つの外湯から湯気が立ち上り、地獄谷の猿を目当てに観光客が闊歩する。
都会のような洒落た場所はないが、いまだ壊されていない自然に溢れている。四季それぞれで顔を変える姿は疑うべくもなく美しく、清流から感じられる匂いは心地よい。
生家は百五十年の歴史を持つ由緒正しき旅館、アキの実家もこの景観に溶け込んでいる。
アキは、そんな街並みが好きだった。他の誰に何と言われようが、比べられようが。
永久にこの景色が変わりませんように――。
その為に決意を持ってアキは東京へと旅立つ。

「天国のお母さん、苦しい家計を助ける為に東京に出稼ぎに行ったきり音信不通になったお父さん。旅館を守り続けてくれているおばあちゃん。タロがくれたこのチャンス、絶対にものにして帰ってくるからね」

呟いた言葉と共に白い吐息が窓に吹きかかる。
そこにある温泉街は、かつてのような活気はない。休日はまだしも平日の客足はまばら、アキの旅館も空室が目立つ。
この景色を目に焼き付けていると、廊下で猫が襖を開けろと催促をする。
襖を開けるとするりと部屋に入り込んだ飼い猫が、畳に座ってじっとアキを見上げて鳴いた。

「チロ。私が帰ってくるまでお婆ちゃんのこと、お願いね……」

頭を撫でるとチロは喉の奥で声を出し、アキの手を何度か舐めた。

「行って……きます」

音を立てないようにキャリーケースを運び出し、厨房に顔を出すと、祖母はコンロの火を弱めてアキの頭を撫でた。

「体に気いつけてなぁ」

何も言えなくなって、アキは口を押さえて頭を下げた。玄関まで来たチロの頭とアゴを撫でて、アキは静かに温水旅館を出て引き戸を閉めた。チロが、最後までじっとアキを見つめていた。
外に出て、もう一度旅館を見上げる。

「アキ、挨拶は済んだ?」

立ちすくむアキの袖を引いたのは、ポニーテールの美少女――七瀬だ。淡いブルーのブラウスに黄色のフレアスカートからのぞくすらりとした美脚は、思わず踏んでくれと縋りつきたくなるほどだ。生足ではなく、ストッキングがまた良い。

「アキ、聞いてる?」
「へ?」
「何ぼーっとしてんの。ま、いつものことだけど」
「ぼーっとしてないよ! 色々考えてたの」
「何を?」
「明日にはもう、ここにいないんだなあって思ってさ」
「アキが感傷に浸るなんて、明日は雨――いや、ヒョウでも降るかもね」
「豹が降ってきたら、危なっかしくて街を歩けないじゃない?」

心底不安な顔で返すアキに、毒舌の幼馴染の親友は吹き出した。

「バカね。豹じゃなくてヒョウ。氷の塊。そんなボケ小学生でも言わないわよ」
「えー! 酷い。私は小学生以下ってこと?」

七瀬はくすくすと笑った。
切れ長で意志の強そうな瞳、すっと通った鼻梁、やや薄い唇。その容姿はどこにいてもひと目を惹く。

『私は東京に行って女優になるんだ』

あの時、あっけらかんと言った七瀬の顔が何故か唐突に思い浮かんだ。
東京の大学に行くのだと思っていた七瀬の夢を初めて聞いた時の驚きは、今でも忘れない。
七瀬の実家も温泉宿を経営している。ただ、七瀬には誰もが思わず振り返るような美人のお姉さんがおり、将来の女将はもう決まっている。

「やっぱりお姉ちゃん、送ってくれるって」
「はあー、最後までお世話になりっぱなしだね」
「いいんじゃないの。いつもの変なストーカーみたいな男に言い寄られるよりは」
「流石、春陽館の美人姉妹は違いますなあ」
「茶化さないでよ。マジでゴキブリ並みにしつこくてムカつくのよ、あいつ! 本当にいつかぶちのめしてやりたい」

買収の話をあちこちで持ち掛けている男が、姉になれなれしくしてくるので七瀬は相当腹が立っているのだ。
七瀬の実家もリゾートグループの傘下に入らないかといった話が持ち上がっている。

「んー、じゃあ、ゴキジェットでも吹きかけておけば?」
「殺す気? でも案外いい考えかも」

七瀬はぷっと吹き出す。
女優の夢を持って上京する七瀬だが、家族のこと――渋のことを誰よりも考えている。

『温泉宿って経営でしょ。学歴だけじゃないかもだけど、経理や財務が分からないと駄目だし、今の世の中だと集客の為のビッグデータ活用やマーケティングとか、その辺諸々知らないと今後はやってけないよ?』

七瀬から、温泉経営の何たるかを説かれた時は冷や水を浴びせられたような心地がしたものだ。

渋温泉再開発の話が出ていると知ったのは、丁度その頃だった。
確か学校の帰り道。「アキのおっぱいミサイルは最終破壊兵器として通用するか」「ならばそのおっぱいは、わしが育てた」などという他愛ない話をしていた時、二人は異変に気付いたのだ。
アキは今でも覚えている。
スーツ姿の男女に対応する祖母の表情は険しかった。
渋温泉の再開発を持ち掛けてくる会社の人間は、しつこく祖母に宿を手放すよう勧めた。
和合橋から天川橋の間にある小さい宿を買い取り、スパリゾートにする計画なのだ。

『今の時代、古い旅館は流行りません』
『カップル、ファミリー、シルバー世代問わず楽しめる、エンターテイメント性の高いスパリゾートを渋温泉にオープンさせれば、集客率もぐっと上がります。こちらが、我が社が手掛けたリゾート開発地の成功例です。ご覧のように、客足が伸び収益も倍近くアップしております』
『いかがでしょうか。悪い話ではないと思うのですが――こちらの旅館をわが社にお譲りいただき、リニューアルさせていただければ、今の五倍の収益が見込めるかと思うのですが』
『こちらの旅館も経営難でお困りでしょう。既に調べはついておりますよ。我々はただ、皆さまのお手伝いがしたい。それによって利益が出るのであれば、ウィンウィンです。そこは、お分かりいただけるかと――』

腰は低いが、どこか厭味ったらしい。弱みに付け込むような言い方がまた、腹が立つ。
買収の話が出ているのはアキの旅館だけではなかった。
アキが子供の頃からあったラーメンが美味しい食堂が、主人が亡くなったなったために閉店した。そこがいつの間にか空き地になって、杭と針金で囲まれていたのは、再開発の煽りを受けてのことだった。
――それじゃあ、うちも。買ってくれるんだ。
一瞬過った考えをぶった切るように、大きくないがきっぱりとした祖母の声が聞こえる。

『お帰りいただけませんかねぇ。いくら説得されたところで、スッパだかスッポンだか、わけのわからないところに場所空けるなんてあらすけー(ないよ)』
『いえ、今日明日にお譲りいただきたいと言っているのではなく……』
『明後日でも明々後日でもだめだよ。あいく(早く)帰っておくれ』
祖母に追い立てられるようにして男女が去って行くと、それを睨みつけるようにしていた祖母が立ち上がって言った。
『アキ、塩撒いとき』

あたふたとしながら撒いた塩は、玄関先を真っ白に染める。まるで土俵入りだった。
アキはその時ようやく、当たり前の日常が壊れるかもしれないという事実を思い知ったのだ。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

七瀬の後に続いて乗り込むと、車は角間川沿いの道をゆっくりと走り出す。
バックミラーを確認しながら、七瀬の姉の奈美が口を開いた。

「アキちゃん、七瀬がちゃんと学校行くように見張ってね」
「あのね、あたしだってちゃんと勉強して、家の役に立ちたいの!」
「はいはい」

七瀬が憤然と抗議したが、姉は笑って受け流し、全く信用している様子はない。
ただ、アキは知っている。七瀬は女優になるのが夢だと言っているが、本当はこの温泉地のことを考えてくれているのだ。アキよりもずっと、未来を見据えている。

――どこも苦しいのは一緒なんだから、皆で何か考えて、もっとお客さんに来てもらおうと思ってる――
弱気になっているアキを叱責する七瀬は、頼もしかった。

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――すべては、ここから始まったのである。