【小説】東京テルマエ学園 第3章 20話「父親の過去」前編

「うわ、またこのCM、ミネルヴァ財団だよ」

ポテトチップスを齧りながら萌が落とした言葉に優奈が顔を上げれば、最近流れ出したとあるホテルのコマーシャル、その最後は『ホテル東京テルマエリゾート』と艶やかな女性のナレーションで締められる。ゆかり女史の声だ。

「最近、妙に羽振りが良さそうよね。まあ、それもこれも学園からオリンピック出場者がたくさん出たからでしょうけど」

「だね~、オリンピック終わってから急にミネルヴァ財団のCM見るようになったもんね」

「こないだミネルヴァサーカスのCM見たよ。で、さっきはホテルでしょ? 前にニュースでカジノ法案とかやってたじゃん、その出資者ってほとんどが大手らしいんだけど、ミネルヴァ財団もその一員になったとかなんとかニュースで言ってた。温泉もアイドルもってあれこれ手ぇ出して、何がやりたいのケンタッキーじじいは?」

「汐音、口が悪い」

「だってホントの事じゃん。なーんか、気に入らないんだよね~」

専門学校やってるなら温泉一本に絞れっての、とソファにふんぞり返る汐音に、優奈の隣にいた穂波は肩をすくめた。

「あれぇ、アギちゃん。ご機嫌だね?」

「ほんとだ。なんかよかこっでもあったと?」

いつも以上に機嫌良く、クッションを抱きしめながらソファーでにこにこと微笑むアキの両隣に涼香と圭が腰を下ろす。淹れてくれたココアを満面の笑みで受け取ったアキは、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに笑みを深くした。

「えへへ、分かる? 分かっちゃう??」

カップを零さないようにスマホを取り出したアキはあるページを開いてみせた。涼香と圭が顔を寄せてくるのをスマホを見やすいように傾ける。

それは某大手の通信販売のページで、写真で大きく映し出されているのは飴色の簪だ。扇形のシンプルな簪だが百合の花が彫られていて、結い上げた髪にそのまま差すだけで雰囲気がぐんと華やかになる。

「これね、見つけたときにおばあちゃんに似合うだろうなって、プレゼントしたいなってずっと思ってたんだけど高くって。バイトもしてるけどほとんど生活費に消えちゃうから、節約して少しずつ少しずつ貯めてたんだぁ。それで、この間のお給料日にようやく買えたの! 昨日届いたから今度帰ったときにおばあちゃんにプレゼントするんだ!」

自分で稼いだお金で初めて贈るプレゼント。働き続けるおばあちゃんに少しでも喜んでもらいたい。べっ甲の簪がおばあちゃんの髪を綺麗に彩るのを思い浮かべ、アキは込み上げる期待にうふふと笑った。

「おばあちゃんにプレゼントかぁ。絶対喜んでくるっじゃ」

「プレゼントするの、楽すみだね」

「うん!」

おばあちゃんはどんな反応をするだろう、驚くだろうか、お金がないのにこんな物買わなくていいのにと遠慮するだろうか。それでも最後には笑ってくれるといい。おばあちゃんの笑顔を思い浮かべて、アキは期待に胸を高鳴らせる。

「よう考えてみたら、家族にないかプレゼントすっなんて誕生日くれしかなかねぇ」

「わだすもアギちゃんみだいに、ばっちゃにプレゼントするべがな。むったどどうもって」

そう言って二人がスマホを弄るのをにこにこしながら見つめていると、アキはふと、部屋の外からばたばたと誰かが走ってくる音を聞いた。カフェオレを淹れていた七瀬もキッチンから戻ってきて、訝しげに部屋の扉を見る。

「誰よバタバタしてんの」

「汐音じゃねエか?」

「いやあたしここにいるんですけどー」

「バタバタしてると管理人さんに怒られちゃうよっと」

軽口を叩いていると、通り過ぎると思っていた足音はアキ達の部屋の前で止まり、強いノック音がリビングに響く。「ハイハイ」ぴょんとソファーから飛び降りた萌が扉を開けると、管理人ではなく、寮長が焦りを含ませた表情で飛び込んできた。

「あれ、寮長じゃん」

「どしたの寮長、何かあった?」

未成年の寮生達の父親代わりとなって気さくに呼ばれている寮長の、人を和ませる笑顔が消え逼迫した様子に、迎えた萌は思わず身を引いた。萌の様子に気づかず、寮長はぐるりと部屋を見渡してアキを見つけると大きな声で呼んだ。

「温水さん!」

「はい!」

「ちょっと、ちょっと来てください」

呼ばれるままソファから腰を上げ、素直に寮長のもとへ行くと、そのまま両肩を掴まれ、顔を覗き込むように視線を合わせる。

「よく聞いてくださいね。――アキさんのお婆さまが倒れたと、連絡がありました」

「え、……え?」

部屋にいたメンバーが息を呑んだ。たった今、お婆ちゃんを想って話をしていたばかりなのだ。言葉もなく、メンバーはアキを見つめる。

信じられなくて、アキは小さく首を振りながら「うそだ」とこぼす。寮長は気の毒そうに顔を歪め、けれど真実なのだと続けた。

「容態はわかりませんが、お客様をお見送りに立った時に倒れたそうです。従業員の方がすぐに救急車を呼んで、病院へ運ばれています。アキさんも病院へ行きますか?」

「びょう、いん……」

頭が真っ白で何も考えられない。お婆ちゃんが倒れた、その事実だけが思考を支配する。

お婆ちゃん、どうして、お婆ちゃん。お婆ちゃんの笑顔が、頭の中に浮かんでは消えていく。

呆然と視線を落とすアキの背にそっと温かな手が添えられた。七瀬だ。

「あの、寮長。アキに付き添ってもいいですか? アキの家とはご近所ですし、アキの様子じゃ一人で長野の病院まで行けないと思います」

「いえ、あなたは明日も授業があるでしょう。この場合公休扱いになるのはアキさんだけで、付き添った方は欠席とみなされます。あと半年で卒業ですし、この時期に欠席するのはあまり良いことではありませんから」

「でも……」

「私が病院まで付き添いますので安心してください。さあアキさん、いそいで準備を!」

ぐっと掴まれた肩を押され、慌てて自室に飛び込んだアキは外出用のカバンを手に取ったが、手が震えて取り落としてしまう。ガクガクと震える手は、心配してついてきた七瀬にぎゅっと握られた。

ゆるりと顔を上げて七瀬を見れば、何も言わないままてきぱきと必要なものをカバンに入れてくれる。お婆ちゃんのために買ったプレゼントも、箱が潰れないように丁寧に入れてくれた。

アキの手を繋いだまま器用に自身の財布を開くと、万札を2枚取り出し、アキの財布へとうつした。ぼんやりとそれを見ていたアキへ向き直り、繋いでいた手に力を込めた七瀬はしっかりとアキと視線を合わせる。

「いい、アキ。ハルお婆ちゃんがどんな状態なのかわからないけど、しっかりするのよ。何かあったら連絡して、すぐ行くから。……プレゼント、ちゃんと渡すのよ」

プレゼント、と聞いてはっとした。そうだ、お婆ちゃんのために買った簪。

唇を噛み締めアキが小さく頷いたのを確かめて、七瀬は手を繋いだまま寮長のところへ戻った。メンバーみんなが気遣わしげにアキを迎え、背中や肩、頭をぽんぽんと叩いてくれる。

「アキをお願いします」

「わかりました。アキさん、行こうか」

促されるまま、アキは寮長についていく。

寮を出て、寮長の所有する車に飛び乗った。すぐさま車は高速道路へ向けて走り出すが、何度も信号や渋滞に捕まって止まってしまう。長野ではさっさと進めるのに。東京の交通の多さが嫌になる。

早く早く、一分でも早く着いて、とそわそわするアキを寮長が運転席から「落ち着きなさい」と諭したが、アキの耳には届かない。

ようやく高速道路へ入り、加速する車の中、流れる景色をぼんやりと眺めるアキはただただお婆ちゃんのことだけを考えていた。

アキが聞いたのは、お婆ちゃんが倒れて病院へ運ばれたということだけ。お婆ちゃんは大丈夫なのだろうか。倒れたということは、脳梗塞といった病気だろうか? 意識はあるのか、命に別状は?

それから、それから、旅館はどうなっているのか。お婆ちゃんがいないということは、旅館を守っているのは誰だろう? お客さんはどうなった?

お婆ちゃんに何かあったとして、アキは、何をどうすればいいのだろう。

アキを小さい頃から手塩にかけて育ててくれたお婆ちゃん。両親がいなくて寂しい時は、いつも強く抱きしめて「大丈夫だ」と笑ってくれた。

悪いことをした時にはお尻を叩いて叱られた。ケガをした時は、アキよりも痛そうな顔をして手当てをしてくれた。

2人で並んで作ったごはん。隣同士で布団を並べて眠った夜。

お婆ちゃんと過ごした何でもない日々が、ぐるぐると頭に浮かんでは消えていく。

お婆ちゃんがいてくれたから、両親がいなくても頑張ってこられた。お婆ちゃんがいてくれないとアキは駄目になってしまう。

「お婆ちゃん……」

お願いだから無事でいて。こぼれた言葉は、涙で滲んだ。

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「大袈裟なんだよこの子はもう、たかだか骨折ったくらいで!」

泣きながら飛び込んだ病室でアキを迎えたのは、いつもと変わらないお婆ちゃんの叱責だった。

「よかったよおーー、おばあぁちゃああーーん!!!」

ベッドへ横になってはいるが意識はあるし、命に別状がありそうでもない。身じろぐたびにあいたたた、と痛みに顔を歪ませてはいるが、最悪の事態も考えていたアキは思ったよりも元気そうなお婆ちゃんの様子にほっとして、家族を失う怖さから解放されたアキは安堵からベッドへ縋って大泣きしてしまった。

「わざわざ帰ってこなくてもよかったんだよまったく」

ぶつくさと小言を言いながらも頭を撫でてくれるその手がちゃんと温かいことにほっとして、尚更目が熱くなる。こわかったよう、とぼろぼろ泣くアキを、お婆ちゃんは泣き止むまで撫で続けてくれた。

「まあまあ。アキちゃんも女将さんが心配だったんですよ」

そばに付き添ってくれていたらしい昔から温水旅館に勤めてくれている仲居の静江が二人を微笑ましそうに見つめた。

泣いて泣いて、ようやく落ち着いてきた頃合いでお婆ちゃんから事情を聞くには、アキが寮で聞いたとおり、お客さんをお見送りに出たときに玄関アプローチで転倒してしまったらしい。今までにない激しい痛みに襲われたお婆ちゃんは立ち上がることさえ出来ず、静江が救急車を呼んだのだとか。

診断は大腿骨付近部骨折。いわゆる股関節の骨折だそうで、ボルトで骨を固定する手術を受けなければならないらしい。

痛み止めを服用しているが、それでも寝返りを打てないほどの痛みが残っているらしく、ベッドで仰向けになったままお婆ちゃんは疲れたようにため息をついた。

「転んだくらいで骨折るなんて、年取ったもんだねあたしも」

「年寄りはそんなものですよぉ、女将さんだけじゃなく私もね」

「ねえおばあちゃん手術っていつ? わたしもここにいる」

「明後日らしいけどアキ、あんたは学校があるでしょう」

「いいの、ここにいる! お婆ちゃんが心配で心配で、勉強なんて手につかないよ」

「まったく、あんたって子はもう」

「あらあら」

呆れたようにぺちんとおでこを叩かれたけれど、どこか嬉しそうなお婆ちゃんにようやくアキも笑うことができた。

聞けば、温水旅館は臨時休業しているらしい。お婆ちゃんと静江と数人の従業員で切り盛りしていた旅館だ、取り仕切っているお婆ちゃんがいないと営業の大部分に支障が出てしまう。拙い接客でお客様に不快な思いをさせるくらいならいっそ休業しよう、との事だそうだ。

病室を見回して、必要最低限の物しかないことにアキは気づく。

「一回家に帰って着替えとかいろいろ持ってこようか」

「ああ、助かるよ。そこの鞄にあたしの財布が入ってるから、タクシー乗って行っておいで。ついでに何かつまめるものも持ってきてちょうだい、病院食は味気なくてまずいんだよ」

「まずいってまたそーゆー事言う」

「ふふふ、では私はタクシーの手配をお願いしてきましょうかね」

「静江さんありがとう!」

静江を見送り、アキは言われたとおりお婆ちゃんの鞄を開けて財布を取り出す。サイドボードの上に入院に必要なものの一覧が書かれた紙が置いてあったので、それも忘れずに自分の鞄へ仕舞った。

一方寮長は、看護師から第三者として差し支えのない範囲の説明を受けてアキのお婆ちゃんの病室へと向かっていた。お婆ちゃんの容態、アキの様子からして暫くは学園に戻ることはないのではなかろうか。そうなれば担任に説明して、公休が適用されるのかを確認しなければ。

そう考えていると、年配の女性とすれ違う。通路の端に寄り、軽く頭を下げれば、目が合った女性は「あら!」と驚いたように口元へ手を添えた。

「もしかして夏雄さん!?」

寮長は困惑した。知らない名前だ。けれど女性は寮長をまるで顔見知りのように接してくる。

「あの、人違いかと思いますが」

「人違いなわけがありますか! 今までどちらにいたんです!?」

「いえ、ですから……」

「夏雄さんがいなくなってから女将さんものすごく落ち込んでたんですよ! ほら、早く元気なお顔を見せてあげてくださいな!」

「はあ、はい……?」

女性の勢いに押されてつい頷くと、女性は安心したように頭を下げて去っていった。何気なく小さな背中を見送りながら、夏雄、女将さん、という言葉に覚えはないかと記憶を探る。が、全くわからない。

まあいい、記憶にない事には慣れている。

寮長はすぐさま意識を切り替え、アキのお婆ちゃんの病室へ足を向けた。

「失礼します」

アキが準備を終えて病室を出ようとしたところで寮長が顔をだした。病室へ入る前、看護師に呼び止められたのを「僕が聞いておくから」と残ってくれたのだった。

「アキさん大丈夫かい?」

「寮長! もう大丈夫です、お婆ちゃんの顔を見たら安心しました! いろいろとご迷惑をかけてすみませんでした」

「いいんだよ気にしないで。――ご挨拶が遅れましたお婆さま。私、東京テルマエ学園で寮長を務めております高木と申します。お体の具合はいかがでしょうか?」

ぺこぺことアキが寮長へ頭を下げるのをいつもの温和な笑顔で受け止めて、寮長は改めてお婆ちゃんへ向き直った。寮長がここまで送ってくれたんだよ、と説明しようとアキが振り返ると、お婆ちゃんは目を見開いて固まっていた。

ぶるぶると震える手を伸ばし、信じられないものを見たかのようにお婆ちゃんは口を開く。

「夏雄……!」

「なつお? 寮長、下の名前って勇作じゃ……、寮長?」

お婆ちゃんの声を聞いた途端、寮長も目を瞠る。お婆ちゃんから呼びかけられた瞬間に、寮長の頭に消えていたはずの何かが甦ったような不思議な心地になったのだ。

見つめ合って動かない二人を、アキは不思議そうに見つめていた。

つづく