第十六話 「渋温泉、再び・・・。そして過去との惜別・・・」|東京テルマエ学園・漫画・小説サイト

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第十六話 「渋温泉、再び・・・。そして過去との惜別・・・」

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時期を同じくして、スポーツの祭典が開幕した。
206の国と地域から33競技339種目の選手達が集まり、日々熱戦が繰り広げられた。
無論、日本柔道界のエースである西郷五郎は、男子81KG級で金メダルを獲得、【ムーラン・ルージュ】の萌も日頃の練習の成果もあり、女子ハーフパイプで見事、銅メダルを獲得したのである。
喜びに沸くアキ達に更に嬉しい出来事が報告されていた。
それは、ケリアン率いるフランスのユースチームも見事に優勝した事である。
無論この試合をカトリーナがずっとPCで見続けていた事は言うまでもない。

このように日本全国が白熱している中、いよいよアイドル甲子園も本戦を迎えた。
東京・新国立劇場のメインホールには47都道府県の代表チームが勢揃いしている。
アイドル甲子園は47チームによるトーナメント方式である。
会場の特別審査員9名と一般審査員、255名が各々5点と1点を持ち総得点数300点を目指して競い合う。
東京地区予選の経験から同点となる可能性を限りなく低くした配慮が為されている事は、三橋の貴重な体験から生み出された案であった。
また、この催しはDODOTV主催で行われていたのだが各地区予選の盛り上がりもあり民放主要5大キー局と主要新聞5大紙も協賛になっている。
これによりDODOTVでの三橋の影響力も日増しに強くなっていた。
「ふふふっ、このまま上手く行くとエグゼクティブプロデューサーだって夢じゃねぇなぁ」
取らぬ狸の何とやらだが、三橋にはもう一つの問題が残っていた。
そう、ミネルヴァとの誓約である。
(もし、【ムーラン・ルージュ】が優勝しなかったら・・・)
三橋は現職を辞任しなければならない。
(頼むぜ、【ムーラン・ルージュ】・・・)
三橋の視線が壇上へと向けられていた。

「次は、東京代表 【ムーラン・ルージュ】です」
抽選会の司会はいつもの如く三波が受け持っている。
「アキっ!」
「頑張ってっ!」
「いいトコ引いてねっ!」
無論ここで言ういいトコとは1回戦が不戦勝となる限られた枠であるが・・・
「さぁ、【ムーラン・ルージュ】のリーダー 温水アキさん。どうぞっ!」
アキは舞台中央に置かれた抽選箱の中に手を入れ、一つのボールを掴みだす。
「42番、【ムーラン・ルージュ】は42番ですっ!」
「やっりぃ!」
思わず声を上げたのは、穂波である。
「でも・・・」
やや不満げな、圭・・・。
「確かに一回戦不戦勝っていうのはラッキーだけど・・・」
七瀬の言葉に優奈が続く。
「42番・・・、縁起が・・・ねぇ・・・」
そんな事に気付かず、アキは壇上で大喜びしている。
そして・・・
「さすがアキちゃん。くじ運も良いんだぁ」
と感心していたのは涼香だった。

アイドル甲子園の中継を見ているミネルヴァ、その向かいのソファには弾が座っている。
「・・・それで、お話とは?」
「ふむ、お前に行って貰いたい所がある」
「・・・どこに?」
親子であるという事実は受け入れたもののこれまでの経緯もあり、圧倒的な上下関係は崩れていない。
「早瀬コンツェルンに、総帥の将一郎氏に会いに行け」
「目的は?」
「これを見ろ」
ミネルヴァはテーブルの上に調査報告書と書かれたいくつかのファイルを広げた。
「これは・・・!?」
素人の弾が軽く目を通しただけでも、萬度により敵対的TOBが画策されている事がはっきりと理解できた。
「この学園を守る為に、早瀬からホワイトナイトを取り付けて来い」

ホワイトナイト(WHITE KNIGHT)は、和訳すると「白馬の騎士」となる。
企業間において、敵対的TOBを仕掛けられた企業を支援して、協力的の買収をしてくれる会社の事をこう呼んでいる。
企業や組織の防衛策であり、白馬に乗った騎士が現れて助けてくれるというイメージからこう呼ばれているものである。
敵対相手からの買収は避けられるが、自社の一部を売却するというデメリットは否めない。
(過去に日本でも、投資ファンド会社・スティールが明星食品に敵対的TOBを仕掛けた時、日清食品が友好的TOBを行い、明星食品は日清食品の完全子会社となった事はよく知られている)

「それを・・・、俺に・・・」
いきなり聞かされた話である、しかもスケールの大きさは想像を絶するだろう。
「しかし・・・」
弾が不安と感じたのは、早瀬コンツェルンの総帥が一介の来客に会うとは考えられない事である。
「ほう、会えるかどうか自信がないのか? これを渡しておく」
ミネルヴァが渡したファイルには・・・
「早瀬リージェンシーホテルのインペリアルルーム・・・。早瀬駆・・・」
「早瀬渡の兄だ」
「じゃあ、早瀬渡も?」
「腹違いの弟になる」
「どうして、こんな情報が・・・」
「弾、お前も知っておいた方が良かろう」

ミネルヴァが話したのは、早瀬駆が萬度に利用され今は早瀬リージェンシーホテルに身を隠している事の他、萬度が世界的な闇商社であることだった。
そして、これらの情報がミネルヴァのPCに直接書き込まれていた事なども・・・
(まさか・・・)
「何か心当たりでもあるのか?」
弾の頭に浮かんだのは、カトリーナの事であった。
(カトリーナなら、やれるかも知れない)

「それと、もう一つ・・・」
ミネルヴァの瞳が怪しく光った。
「クラウンジュエルを行う」

クラウンジュエルとは、敵対的TOBに対する対抗措置の一つである。
敵対的TOBを仕掛けられた会社が自社の中で最も収益性が高い等の高い評価を得ている部門を別の誰かに移譲して、本体の価値を下げ買収していようとしている者のメリットを無くす方法である。
元の会社をクラウン(王冠)として、ジュエル(王冠の宝石)を外すことで、クラウン(王冠)そのものの価値を低くしてしまう事を目的としている。
但し、買収防衛を目的として財産譲渡となる事から、この決定を下した者は善管注意義務・忠実義務違反を問われる可能性も含んでいる。

「つまり・・・」
「背に腹は代えられん。弾・・・、お前にこの学園を譲る事になるだろう」
「なっ!?」

弾にはミネルヴァは腹の底が読めなかった。
テルマエ学園の他、ミネルヴァの傘下にある企業や事業体を守る為としては理解できる。
だが、このミネルヴァがどこまで本心でそれをやろうとしているのかは甚だ不明だ。

「失敗すれば、儂もお前も沈むだけだ・・・。あの娘達も・・・な」
(やり切るしか・・・、ないのか・・・)

弾の眼差しが炎のような勢いでミネルヴァに向けられる。
「やってやる・・・。だが、あんたの為じゃないっ! あの子達の為だっ!」
「それで結構・・・。目的が違っていても、結果が同じなら十分だ」
ホッホッホッと、ミネルヴァが笑う。
「それと、クラウンジュエルの件はお前からは話すな・・・」
「なぜ・・・」
「恐らくは、早瀬から持ち掛けてくるだろうが・・・。お前の手柄にしてこい」
「・・・」
「その方が話もまとまりやすかろう。それと、もう一つ手土産を持っていけ」
ミネルヴァの言う土産話を聞き、弾は愕然とした。
(そんな事まで・・・)
「如月には儂から話しておく・・・」
ニヤリと笑うミネルヴァを弾は黙って見据えていた。

ゆかりの次の目的地は渋温泉だった。
湯田中駅を降り温泉街の街並みを眺めながら、先ずは七瀬の生家へと向かう。
「ここが星野荘か・・・」
ゆかりは敷地内へと歩みを進める。

「いらっしゃいませ」
女将の奈美がゆかりの姿を見止めて奥からいそいそと姿を見せる。
「テルマエ学園の橘と申します。星野さんのお姉様でしょうか?」
どうしてテルマエ学園の人がと、訝しがる奈美。
「あの・・・、七瀬が何か・・・?」
奈美の表情が曇る。
「家庭訪問の様なものです」
ゆかりは端的に話す。
「そうですか・・・。ようこそお越し下さいました。立ち話も何ですので、どうぞお入り下さい」
ホッとして笑顔になった奈美がゆかりを客室へと案内する。

客室に通されたゆかりの前に茶と茶菓子が出される。
「お姉様お一人でここを切り盛りされているんですね。お若いのにご立派です」
「いえ、私などは・・・。曽祖父の徳次郎の作ったここを引き継いでいるだけで・・・」
壁に掛かっている写真に目を向ける奈美。
人の好さそうな初老の男性が一升瓶を抱えて笑っている。
「曽祖父です」
奈美が答える。
「曽祖父様ですか・・・」
ゆかりの目は写真の隣に掛けられている紋付に注がれていた。
「星野徳次郎と申しますが、私の生まれる3年前に他界しておりますので、面識はありませんが・・・」

星野家はもともと、星野荘ではなかった事が奈美の口から語られた。
この渋温泉で最も小さな家湯であった星野湯が始まりであった。
大きな旅館に挟まれ、家族だけの経営で旅行客の足湯としてほそぼそと営業していた。
曽祖父の徳次郎は足湯だけではなく、温泉旅館として建て増しする為に各地の工事現場へ出稼ぎに行っていたらしい。
そして長年に渡る努力の甲斐もあり、ある工事現場での慰労金を加算して星野荘を立ち上げ隠居生活に入ったのであった。
ただ、それまでの過労ともともと酒好きだった事もあり、肝臓がんで他界したのである。

「こちらの紋付は?」
「曽祖父のものですが、何か?」
「いえ・・・」
(六文連戦か・・・、真田の血筋・・・)
ゆかりの脳裏にはこれまでに訪れて来た七つの温泉地の事が思い出されている。
(全てが・・・、関ケ原の西側の陣営・・・)

「温水屋さんはお近くでしょうか?」
「はい、歩いてすぐですが・・・。アキちゃんの事で・・・?」
「ええ、同じく家庭訪問に・・・」
「では、ご案内させて頂きます」
「いえ、お忙しい所をそんな・・・」
「本当に直ぐそこですので」
「・・・では、お言葉に甘えさせて頂きます」

奈美に案内され、ゆかりは温水屋を訪れる。
「ごめん下さい」
「はーい」
奥から仲居頭の弥生が現れる。
「あら、奈美さん? こちらは?」
「こちら、仲居頭の荻ノ沢さんです」
弥生はゆかりを見て頭を下げる。
「弥生さん、こちらはテルマエ学園から来られた橘さん」
「橘です」
ゆかりも会釈を返す。
「まぁ、アキさんの・・・。女将さーんっ!」
弥生は急ぎ慌てて女将を呼びに奥へと引っ込み、そしてハルを伴い直ぐに戻って来た。
「アキがいつもお世話になっております。女将の温水ハルです」
女将としての威厳と貫禄を兼ね備えたハルの姿を見て、ゆかりも思わず恐縮してしまっていた。
(この人が、温水アキの祖母・・・。今までの女将達とは何かが違う・・・)
「奈美さん、ご案内ありがとうね」
「いえ、それでは私はこれで・・・」
「ありがとうございました」
「さあさあ、中へお入りください」
奈美が帰り、ゆかりは客室へと通される。
整然とした客室に茶と茶菓子を用意し、弥生は退席した。
「今日はどういったご用件でしょうか?」
ゆかりをまっすぐに見据えて話すハル、なぜか刺すような視線になっている。
「お忙しい所、申し訳ありません。家庭訪問という意味で生徒さん達の御実家を回らせて頂いております」
普段のゆかりからは考えられない程、慇懃な所作の挨拶である。
「そうですか・・・。それで何をお聞きになりたいのでしょうか?」
ハルのペースに自然と引き込まれてしまい、ゆかりは次の言葉がうまく出てこない。
(私が・・・、押されている・・・?)
焦るゆかり。
「アキは・・・。昔から手のかからない娘でした」
そんなゆかりを見かねたのかハルが唐突に話し出した。
「あたしが仕事で忙しく、ほったらかしでもあの娘は文句一つ言わずに動物たちと遊んでいたんです。七瀬ちゃんとも仲良く遊んでましたねぇ」
「星野さんですね。昔からお付き合いがあったのですか?」
「同じ温泉郷の中ですし・・・、星野荘には、思い入れも・・・」

ハルが遠い過去を回想する。
「おっ、ハル坊じゃねぇか。どうしたんだ?」
「あっ、徳次郎おじちゃん。あのね、お家が忙しいから表で遊んでなさいって」
「そうか・・・、ハル坊んとこはでっかい旅館だからなぁ」
「ハルも、徳次郎おじちゃん家みたいなところの子だったらよかったのにな・・・!」
「なんで、そう思うんだい?」
「だって、そうだったらいつも一人で遊ばなくても良かったもんっ!」
「ハル坊・・・。温水さん達もハル坊の為に頑張ってるんだぜ」
「そんなの・・・、わかってるけど・・・」
「よしっ! ハル坊っ、ドロップ食うか?」

ハルが旅館の忙しさで両親から構って貰えない寂しさを、徳次郎が埋めてくれていたのだ。
時にはドロップであり、時にはポン菓子であり・・・、煎餅や飴玉をポケットに忍ばせて、一人寂しく遊んでいるハルをいつも気にかけていたのだった。

そんな徳次郎は渋温泉の隧道工事を最後に出稼ぎをやめ、星野荘を作る。
(徳次郎さんの作った星野荘・・・。あたしにとっても唯一無二の存在だよ・・・)
ハルが奈美と星野荘に対して特別の目を向けていたことは、5年前の悲惨な交通事故だけがきっかけでは無かったのだ・・・

遠い昔を回想していたハルが急に胸を押さえた。
「うっ・・・。くっ、苦しい・・・」
畳の上に倒れ込み胸を押さえて苦しみだすハル。
ゆかりが駆け寄ると、顔面は蒼白になりびっしょりと冷や汗をかいている。
「だっ・・・、誰かっ! おっ・・・、女将さんがっ!」
ハルを抱きかかえて大声で叫ぶゆかり。
がらりと襖が開けられ、弥生が飛び込んでくる。
「あ・・・、お・・おかみさ・・・」
「早くっ! 救急車をっ!」
尋常ではないハルを見て取り乱す弥生にゆかりが叫んだ。
「は・・・、はいっ!」

呼吸するのも苦しそうなハル。到着した救急隊員がハルに酸素マスクを装着しストレッチャーが救急車に格納される。
「斎藤総合病院へ搬送します。付き添いの方は?」
救急隊員の言葉を聞き、弥生が救急車へと乗り込むとサイレンを響かせて温水屋から出発した。
ゆかりはそれを見届けた後にタクシーを呼び、救急車の後を追う。
ハルの無事を祈りながら・・・

その頃、テルマエ学園では・・・
「皆、よくやった!」
【ムーラン・ルージュ】が東京代表に決まった事を最も喜んでいたのは、何を隠そう葵である。
「次は優勝を目指すぞっ!」
まだ始まったばかりだというのに、もう勝った気でいるのは流石と言えるだろうか。
「大塩八郎様にお届け物です」
「よっしゃ、来たなぁ!」
八郎宛に小包が送られてきたのは丁度その時だった。
「なんですか? 師匠?」
覗き込む二郎、得意げに差出人名をトントンと指先を叩いて見せつける八郎。
「新宿ジュエリー ユキって・・・」
「そうや、日本を代表する宝石の販売店やで」
嬉しそうに箱を開ける八郎。
中にはキュービックジルコニアがあしらわれた風車のペンダントが数多く入っている。
それを取り出し、アキ達一人一人に手渡す。
「東京代表になった記念品や。それと、前に草津温泉で盗撮してしまった事のお詫びも兼ねてるんや。あの時は・・・、本当に悪い事してしもうた。堪忍してぇな」
珍しく殊勝な態度の八郎、かなり反省しているようにも見受けられる。
やった事は犯罪だったのだが・・・
皆も苦笑しているが、一応は受け取っている。
「八郎のプレゼントってのが、怪しいよなぁ」
穂波はペンダントを何度もひっくり返しながら見ている。
「確信犯だからねぇ・・・」
優奈も疑いの視線を八郎へと向ける。
「そうだっ!カトリーナに調べて貰おうよ」
言うが早いか七瀬がカトリーナの所にペンダントを持っていく。
(ふっ、カトリーナに調べさせるのは計算ずくやで。でも、これはいくらカトリーナでもバレへんで・・・。例え、GPSが入ってたとしてもや・・・)
悪魔的にニタリと笑う八郎。
カトリーナが全員のペンダントを調べるが、何も異常は見つけられなかった。
ハンは早速ペンダントを首にかけている。
「キラキラ光って、綺麗ネ! 八郎、アリガトッ!」
無邪気に喜ぶハン、だがいつもより少し元気が無いようにも見受けられた。
更に八郎は、カトリーナや葵にもペンダントを配る。
カトリーナは仕方ないと言う感じでうけとったのだが、葵は・・・
「教師がこんなものを付けられるかっ!」
と一言ですげなく断られてしまっていた。
「そこをなんとか・・・」
すがりつく八郎とのペンダントの押し付け押収がしばらく続いたのだが、結果的にペンダントは全員に配られたのである。
ただ・・・
やはり八郎のプレゼントは怪しいという事で、ハン以外は各々のロッカーへとしまい込まれたのであった。

その、ハンだが少し元気が無かったのには理由がある。
話は数日前に遡る・・・
ハンがベティのケチャップで椅子に腰を掛けている。
手にはミネラルウォーターの瓶、あの日と同じものだ。

「矢板サン・・・」
数日前、ハンはマンゴローブからここに呼び出されていた。
話の内容は・・・
「ハン、しばらく俺はここに戻れない」
「じゃあ・・・、萬度ニ・・・」
「最後の手段として特命が下る」
「ハン、一緒ニ行クヨ」
立ち上がろうとするハンを押しとどめるマンゴローブ。
「お前には、こことあの子達に付いていてやって欲しい」
「でも、一人ジャ・・・」
「いいか、ハン。俺は非合法な捜査を行おうとしている」
「・・・」
「もし、身元が割れればここは勿論、あの子達にも萬度の手が伸びる事だってあるんだ」
「デモ・・・」
「俺は絶対に失敗しない。だから・・・」
「ダカラ・・・?」
「俺が笑って帰ってこれるようにここを守っていてくれ」
マンゴローブの目は微かに潤んでいた。
ハンも言葉には表さないマンゴローブの気持ちを察しただろう。
「ハン、ここで待ッテル!」
「何かあったら、本陣と早乙女さんにすぐ知らせろ」
「分カッタ・・・」
麻薬組織への潜入である、無事に帰って来る可能性がどれほど低いかは推して知るべしだろう。
それだからこそ、マンゴローブの意志の固さを知っているハンは止められないのだ。
「行ってラッシャイ・・・。矢板サン・・・」
「ああ、後は・・・。頼むぞ、ハン・・・」
ハンに背を向けてそう言ったのは、流れる涙を見せたくなかったのだろうか。

早瀬コンツェルン、総本部ビルに弾の姿があった。
駆の事から一足飛びに早瀬将一郎との面談へと漕ぎつけていたのだ。

「君が松永弾君か・・・。京舞踊の家元でもあるそうだが・・・」
「えぇ、でも今はテルマエ学園の講師として、ミネルヴァ財団の代表としてお邪魔しております」
先のミネルヴァとの対談もそうだったが、弾の口から京言葉は一切聞こえてこない。
それだけ緊迫しているのだろう。
「早速だが・・・、駆の事はどこから聞いた?」
「直接、情報が知らされました」
「どこから?」
「不明です」
「出先の分からぬ情報をどうして信用できるのだね?」
「総帥がこうして会われた事で十分信じるに足りるかと・・・」
「ほう・・・、若いのになかなか・・・」

しばらくの沈黙が流れる。

「それで、用向きとは?」
弾の全身に緊張が走る、体中の毛穴から汗が吹き出しそうになる。
「早瀬総帥に、ホワイトナイトをお願いしたい」
「ホワイトナイトとは・・・、穏やかな話ではないな・・・」
「テルマエ学園に敵対的TOBが仕掛けられようとしています」
「ミネルヴァ財団の資金力なら十分に潰せるのでは?」
「相手は・・・、萬度です」
「何っ!? 萬度だとっ!?」
(勝った!)
この一瞬に弾はこの会見の流れを手中にしたと実感した。
これまでとは違った将一郎の感情の乱れは確実に会見の流れを大きく変えていた。

「・・・で、それはミネルヴァ氏の意志かね?」
「全権を持ってここに来ているとご理解して頂ければ・・・」
「・・・」
将一郎がしばらく考え込む。
そして・・・
「ホワイトナイトの件は了承した。だがそれだけでは弱かろう」
「総帥のお考えは?」
「クラウンジュエルを同時に・・・」
「承知しました。テルマエ学園を財団から分離します」
「なっ、なんだとっ!? 君の一存では決められまい!」
(そうか、あいつはこの流れを予測していたのか・・・)
交渉は相手の想定を上回る答えを出した方が勝ちである。
弾も今回の事で大きな成長を遂げる事であろう。

「先ほども申し上げました通り、私は全権を持ってここに来ております」
「ふむ・・・。確かにそれも一理あるか・・・」
「それと・・・」
「何か?」
「この話を呑んで頂けるなら、もう一つご提案があります」
「ほう、それは?」
「ご子息の身柄を確実に保護します」
「それはこちらもやっている。心配はない」
「アウトローの襲撃はアウトローでないと防げません」
「何が言いたい?」
「早瀬リージェンシーホテルの最上階を二月会にガードさせます」
「二月会だと!?  なぜそんな事がっ!?」
「蛇の道は蛇・・・。という事でしょうか」

将一郎の命で早瀬リージェンシーホテルのインペリアルルームは警備員を増員配備しているが犯罪組織が動くとなればどこまで効果があるかは心もとない。
周辺の警備は警視庁によるパトロール強化が為されているが建物内までは警察の管轄外である。
何よりも人を殺める事を何とも感じない輩からの襲撃が現実に起きたとすれば同じアウトローである二月会のガードがより完璧なのは自明の理と言えよう。

「将来への禍根の芽は一日も早く積むべきだな」
「同感です」
「ミネルヴァ氏に伝えてくれ。この申し出、早瀬は全てお受けすると・・・」
「承知しました。総帥の御英断、感謝致します」
「私にも君のような息子が居ればな・・・」
「お褒めの言葉、痛み入ります」
「それと、駆の事だが・・・」
「はい?」
「孫王文の動きを止める為に使うつもりでいる」
「それも伝えておきます。では・・・」

緊張感の連続で立っているのも精いっぱいの弾だったが、テルマエ学園に戻るまでは気力で持ち堪えていた。

戻った弾からの報告を聞いたミネルヴァが如月に電話を架ける。
「何かあっても、早瀬駆を守り抜け。二月会の全てを使ってもだ」
電話を切ったミネルヴァが呟く。
「早瀬・・・将一郎・・・。こちらの手も読んでおったか・・・。食えんな」

同じ頃、将一郎も呟く。
「飛鳥井の助言もあったが・・・。まさかミネルヴァから歩み寄って来るとは。油断ならんか・・・」

さて、救急搬送されたハルは3時間に及ぶ緊急手術を受けていた。
病名は心筋梗塞、極度のストレスと長年溜まった過労や心労が原因である。
ハルの手術が始まり、弥生は慌ててテルマエ学園に電話を架ける。
その電話を受けたのは葵であり、すぐにアキへとハルの容体が伝えられた。

「温水っ! お婆さんが急に倒れたそうだっ!今、手術中らしいが、すぐに帰れっ!」
「えっ、おばあちゃんが・・・?」
目の前が真っ暗になるアキ。
「アキっ! あたしも一緒にいくよ! すぐ荷物まとめてくるっ!」
七瀬が自分とアキの荷物の準備に自室へと走り出す、だが・・・
(おばあちゃん・・・!!)
呆然としたアキは衝動的にその場から走り出し、学園を飛び出す。
「待てっ! 温水っ!」
電話の応対をしていた葵が飛び出したアキに気付いた時には、既に後ろ姿がわずかに見えただけだった。

着の身着のままで学園を飛び出したアキ、目からは涙が後から後から噴き出してくる。
横断歩道で歩行者信号が赤に変わった事も目に入らないアキは、交差点に走り込んでしまっていた。
キキーッ!
飛び出したアキの直前で一台の車が急ブレーキを踏む。
「バカヤローっ! 赤で飛び出すなんて、死にてぇのかっ!」
フルブラックのメルセデスベンツから出て来たのは、偶然にも如月だった。
交差点にうずくまり泣きじゃくるアキ。
「何だ? いつかの嬢ちゃんか。どうしたんだ?」
泣きじゃくるアキを抱え、抱き起す如月。
周囲には何事かと人だかりができ始めていた。
「見世物じゃねぇっ!」
如月のドスの効いた声で通行人達も目線を外して離れて行く。
「おばあちゃんが・・・、おばあちゃん・・・」
アキはうわ言のように繰り返すだけである。
(このままここに居ても埒が明かねぇし、サツでも呼ばれると面倒だ・・・)
「嬢ちゃん、話は車で聞かせて貰うぜ」
そう言うと如月はアキを車に乗せ、その場を立ち去った。

斎藤総合病院では〈手術中〉のランプが消え、手術を終えたハルが個室に運ばれていた。
手術室から出て来た担当医が弥生に説明する。
「冠動脈が一本だけ詰まったままの状態だったのが幸いでした」
「女将さんは!?」
「PCI・・・、カテーテル・インターベンションという療法を行ったのでもうしばらくしらた意識も戻るでしょう。数日すれば退院も可能です」
「女将さん・・・、本当に・・・。良かった・・・」
ホッと胸を撫でおろすと同時にその場で号泣する弥生。

※カテーテル・インターベンションとは、カテーテルを手や足から動脈に入れ冠動脈の詰まった部分までもっていき、カテーテル先端に装着されたバルーンとステント(筒状になった網目の金属)を使って再開通させる手法である※

ハルが運ばれた病室では、弥生が傍らに寄り添い、手を握りしめながら覚醒するのを只待ち続けている。
まだ麻酔が効いているのだろうか、ハルはベッドの上で静かに眠っていた。

コンコン コンコン
ノックの音がして弥生がドアを開けると、タクシーで駆けつけたゆかりが息せき切って入って来る。
「お・・・、女将さんは・・・?」
「手術は成功して、まだ麻酔で眠っておられます。先生から、数日で退院できると・・・」
「そうですか・・・、それは何よりでした」
ゆかりも安堵の表情を浮かべ、ハルの顔を覗き込む。
弥生は気付いていなかったが、この時にゆかりはハルの顔を覗き込みながらベッドの片隅に超小型の盗聴器を仕掛けていた。
「それでは、私はこれで失礼します。どうぞお大事になさってください」
「ありがとうございます。橘さんにもご迷惑をお掛けして・・・」
「いえ、大したことでは。それでは・・・」
ゆかりはベッドで眠るハルに深々と頭を下げて病室を後にする。
(恐らく、温水アキがこちらに向かっている筈・・・、もしかすると星野七瀬も・・・。星野奈美も駆けつけるでしょうし、ここは場所を変えて待つのが得策ね)
今ここでアキや七瀬と会う事で自分の行動の目的が知られてしまう事を懸念したゆかりはちらりと時計を見て足早に病院を出る。
病院脇の喫茶店に入り、窓際の席に座ったゆかりはタブレット端末をテーブルに置く。
(これで多少は長居しても不信がる事は無いわね)
その眼前に停まったタクシーから奈美が降り、駆け足で病院へと入って行った。
そして、しばらくすると弥生が病院の玄関口に姿を見せる。
どうやら、奈美と交代してアキを待つ事にしたのだろう。

その少し前、斎藤総合病院へと向かうタクシーの中で奈美が七瀬にスマホで話していた。
「七瀬っ!、女将さんは斎藤総合病院に運ばれて手術中って弥生さんから連絡が・・・」
「姉貴っ! 知らせを聞いてアキが飛び出してしまって何処にいるかもわからないの・・・。スマホも持ってってなかったし・・・」
「アキちゃんがっ!?」
「学園の皆にもアキが戻ったら直ぐに連絡くれるように頼んだけど・・・。きっと渋温泉に向かってる筈だから・・・。あたしもそっちに行く」
「分かったわ。急いで・・・」
電話を切った七瀬はアキと二人分の荷物を持って東京駅へと向かった。

ほぼ時を同じくして・・・
如月は何処へ向かうでもなく、ただ黙々と車を走らせる。
助手席に座ったアキも両手を何度も組み合わせながらではあったが。少しずつ落ち着きを取り戻して来ていた。
(少し、落ち着いたか・・・)
タイミングを計りながら、事情を聞く為に如月はゆっくりと話しかけた。
「なぁ、嬢ちゃん・・・。一体、何があったんだ・・・?」
アキはゆっくりと顔を上げる。
「おばぁちゃんが倒れたって・・・。わたし・・、どうしたらいいのか・・・。分からなくて・・・」
アキが助手席から目に一杯の涙を溜めて、如月を見る。
(この瞳・・・、どこか懐かしい・・・。あの時もそうだった・・・)
アキと初めてハニーポットで会った時も何か不思議な感覚になった事を如月は思い出す。
「そうか・・・。で、嬢ちゃんの実家はどこだ?」
「長野の・・・。渋温泉・・・」
「しっ・・・、渋温泉だとっ!?」
驚きのあまり思わず、急ブレーキを踏む如月、目を見開き吃驚仰天している。
「きゃあっ!」
シートベルトをしていたものの、アキの身体が前に投げ出されそうになった程だった。
「きっ、如月さん・・・??」
「嬢ちゃん・・・、今更だが・・・。名前は・・・?」
「え・・・、温水・・・。温水アキ・・・」
急停車したままの車内で、アキは如月の目をまっすぐに見つめて答える。
(このまっすぐな瞳、忘れてたぜ・・・。何であの時に思い出さなかったんだ、俺は・・・。俺はなんて馬鹿なんだ・・・)
己を嘲笑するかのように如月の乾いた笑いが車内に響いた。
「・・・、如月・・・さん?」
戸惑うアキに如月が視線を戻す。
「よし、今から渋温泉に向かうぞ! 飛ばすからなっ!」
突如、如月はアクセルを踏み車をUターンさせ、長野方面へと向かう高速道路へと入って行く。
「でも、如月さん・・・。わたし・・・、おばぁちゃんが何処に運ばれたかも聞いてないし・・・」
電話を受け、そのまま何も聞かずに飛び出した事を後悔するアキに如月が語り掛ける。
「渋温泉でそれなりの病院と言えば・・・、一つしかねぇ!」
ハンドルを切り加速する如月が、ブルートゥースを使って電話を架ける。
RrrrRrrr
「洸児か? ちょっと用事が出来た、あっちの件はお前に任せておく。絶対に殺られるんじゃねえぞっ!」
その如月を見つめるアキ。
どうして如月が自分の為に渋温泉に向かってくれるのか、どうして入院先の病院がわかるのか、謎は多かったが今は少しでも早くハルの所に戻りたいと一心に願うアキであった。

その頃、斎藤総合病院では麻酔の切れたらしいハルがゆっくりと目を開けていた。
「温水さん、分かりますか?」
担当医がハルに尋ね、隣にいた看護師がバイタルをチェックする。
「はい」
ハルのしっかりとした答えを聞き担当医も笑顔になって話しかける。
「もう、大丈夫ですよ」
「ありがとうございました」
退室する担当医と看護師に付き添っていた奈美が頭を下げる。
「奈美さん・・・、心配させちまったねぇ・・・」
弱々しく語るハルに奈美が答える。
「いいえ・・・。ご無事で本当に良かったです・・・」
「それと、奈美さん・・・」
「何でしょうか?」
「テルマエ学園の橘さんって言ったかね・・・」
「えぇ、お帰りになられたと弥生さんが・・・」
「そうかい・・・、あの人にも迷惑かけたけど・・・」
「何か?」
「アキと七瀬ちゃんには、橘さんが来た事は黙っておこうと・・・。弥生さんにも伝えとくれ・・・」
「女将さん・・・。どうしたんですか・・・?」
「いや・・・。嫌な予感がしてね・・・」
「分かりました、女将さんがそうおっしゃるなら・・・」
だがこの会話をゆかりがすぐ近くで盗聴しているとは気づく筈も無い。

しばらくして、フルブラックのメルセデスベンツが病院の玄関前に横付けされた。
(あの車・・・、如月・・・?  なぜっ!?)
見覚えのある車にゆかりが驚いた。
更に、その中からアキが降りて来たのは想定外である。
(あの時・・・、知り合いのようだったのは・・・)
ゆかりの頭の中に、ハニーポットで見かけた如月とル・パルファンの後で起きた事件の事が思い出される。
「あ・・・、アキさんっ!」
驚いたのは、弥生も同じだった。
「夏雄・・・さん・・・?」
如月と弥生の視線が交差する。
「弥生ちゃん・・・か?」
幼馴染のように育った二人、18年ぶりの再会である。
(えっ? 如月さんと弥生さんが知り合い・・・? 夏雄さんって・・・?)
戸惑うアキに弥生が声を掛ける。
「アキさん、女将さんは3階の302号室です。早く行ってあげて下さい」
「う、うん」
何か釈然としないものを感じたが、今はハルの下へとアキは急いだ。
アキが病院へと駆け込んだのを見届けて、如月は背中を向けてその場を離れようとする。
それを見た弥生が如月の腕をしっかりと掴む。
「また、逃げるんですかっ!? 夏雄さんっ! 女将さん・・・、心筋梗塞で手術したんですよっ! 口には出さないけど、夏雄さんに会いたいんですよっ!」
「今更・・・、どの面下げて会えるってんだ・・・」
パシーンっ!
あくまでもハルとの再会を拒否する如月の頬を弥生が引っ叩いた。
「いい加減にして下さいっ! 一生、会わないでいるつもりなんですかっ!」
弥生は涙声になりながら、如月に懇願する。
「お願いです・・・、夏雄さん・・・。一目だけでも・・・」
「・・・、分かった」
半ば弥生に押し切られたようなものだが、如月はハルの病室を訪れる。
そして・・・
弥生とともに病室に現れた如月を見て、驚くアキと奈美。
しかし、一番平常心を失ったのは他ならぬハルであった。
「夏雄っ!?」
ハルの声に黙って頷く弥生、如月は尚も務めて無表情である。
しばらく、無音の時間が流れた。
そして、ハルの表情がいつものものに戻り、口を開く。
「いい所に真打ち登場だね。全く・・・、血は争えないもんだ・・・」
ハルの視線はまっすぐ如月に向けられている。
(おばぁちゃん・・・、如月さん・・・)
アキも只ならぬ雰囲気に呑まれ、立ち竦んでしまっていた。
何かしらの事情を察した奈美は病室を出ようとするが、ハルに呼び止められる。
「アキ・・・、奈美さん。今から話す事を聞いとくれ・・・」
ハルは昔を思い出すように一言ずつ、しっかりと語りだした・・・

「いずれは話さないといけないと思ってたんだけどね・・・。アキ・・・、お前はここで生まれたんだよ・・・」
「おばあちゃん・・・」

アキはここ、斎藤総合病院で産声を上げた。
だがその時に散ってしまった命も一つあったのだ、如月冬美・・・、アキの母である。
「冬美・・・、それがわたしのお母さんの名前・・・」
「お前の父親は、夏雄・・・」
「冬美・・・、夏雄・・・」
アキは物心ついた頃から、なぜ自分には父と母が居ないのかとずっと思っていた。
しかしそれを聞く事が出来なかったのだ。
厳しくも優しいハル、まるで母や姉であるかの様に自分を可愛がってくれている弥生に真実を聞く事が出来なかったのだ。

20年ほど前の事である。
ここ温水屋に一人の女性客が逗留していた。
生まれつき体が弱く普通に生活をしていく事が辛い娘を哀れんだ父が温泉地での逗留をさせていたのだった。
そしてその女性客は、温水屋の長男であった夏雄と恋に落ちる。
ハルは母親代わりとして育ててきた夏雄には普通に結婚し、この温水屋を継いで貰いたいと考えていた為、猛反対するが夏雄の意志は強かった。
そして、一年後にアキが生まれたのである。
娘の誕生に大喜びする夏雄、だが運命は残酷にも冬美の命を奪っていったのだ。
まるで、アキの誕生と引き換えであるかのように・・・

更に夏雄に大きな波が打ち付けられた。
それは、東京にいる義父が不慮の死を遂げたのである。
そして、東京よりの使者が義父の遺言を持ってここを訪れる。

「会を継げと・・・」
「会長の御遺言です・・・」
「死因は?」
「出血死・・・」
「事故・・・、ですか?」
「いえ・・・、奴らにっ!」

義父の名は、如月猛。
東京 新宿に拠点を置く二月会の初代会長である。

「なぜ、俺を後目に・・・。あんた達だっているだろう・・・」
「会長は・・・、冬美お嬢さんが選んだ男なら間違いない・・・と、今際の際まで・・・」
「そう・・・、か・・・」
(冬美・・・、俺は・・・)
夏雄は冬美から父親の事は聞き及んでおり、一度だけ面識がある。
その時、義父から中国系の犯罪集団が横浜を拠点にして少しずつ勢力を広げようとしている話を聞いていた。

「それを防げるのは俺達しかいない・・・」
強い意志を感じされる口調だった。
「俺にも何か出来る事は」
「夏雄さん、あんたは冬美を幸せにしてやってくれ。俺はその為に奴らと戦う」
毅然とした態度、任侠とはきっとこういうものなのだろうと夏雄は感銘を受けた。

その義父が不慮の死を遂げたのであれば、今やるべき事は一つと心を決めたのだった。
「母さん・・・」
アキを抱いた夏雄がハルの部屋に入る。
「夏雄・・・、好きにしな。どうせ止めても無駄だろう」
「アキを・・・、アキを頼みます」
あーあーと、両手を目いっぱい伸ばして甘えるアキをハルに託す夏雄。
「斎藤先生を介して、養子縁組の手続きをお願いしてあります。この子は・・・」
夏雄の目から大粒の涙が止め処なく零れ落ちる。
「この子は、温水アキ・・・。俺は・・・、如月夏雄・・・!」

こうして生まれたばかりのアキはハルの手に委ねられたのである。
その時、部屋の前の廊下で成り行きを見守っていた弥生も涙が止まらなかった。

二月会二代目会長となる為に東京へと向かう夏雄、その後ろ姿をじっと見つめるハル。
「因果かねぇ・・・。二度も子供を引き受ける事になるなんて・・・」
「女将さん・・・」
「弥生さん、この事はあたし達だけの秘密に・・・。アキには絶対に話しちゃいけないよ・・・」
「・・・、はい」
きゃっきゃっと声を上げて笑うアキを見て、ハルが呟く。
「アキ・・・。あんたを立派な女将に育ててあげるよ。何も心配しなくていいんだよ」

ハルの表情が固くなり、そして悲哀に満ちた。
「アキ、この如月夏雄が・・・。あんたの父親だよ・・・」
如月は黙ったまま視線を外す。
「如月さんが・・・、わたしのお父さん・・・」
驚きと嬉しさの入り混じった不思議な気持ちのアキ。
「どうして・・・、今まで・・・」
アキの眼差しがハルに向いていた。
「アキ・・・。あんたを誰にも渡したくなかった。あたしの我儘って事は十分わかってたけど・・・、あんたはあたしにとっての孫・・・。いや、娘なんだよ・・・」
顔を横に向けるハル、とても言葉が続けられないのだろう。
「アキちゃん、女将さんの気持ち・・・、分かってあげて。あなたが大切だったのよ・・・。だから・・・」
奈美がハルの気持ちを慮って言葉を繋ぐ。
「うんっ。わかってるよ、奈美さん。だって、わたしもおばぁちゃんが大好きだもん」
アキは大きく頷くと晴れやかな笑顔を見せる。
(アキ・・・、ありがとうよ・・・)
ハルの呟く声はアキには聞こえなかっただろう。
そして、ハルの頬を一筋の涙が伝った事も・・・
「わたし、おばぁちゃんが退院するまでここに居るから安心してね」
アキの言葉はハルにとって何よりも価値のある一言であった、そしてそのままこの言葉に甘えたいと思ったのも真実である。
だが、ハルはキッとアキを見つめ直した。
「まだまだあんたの世話になるほど耄碌してないよ。それよりもアキ、あんたにはもっと大切な事があるんじゃないのかい」
「おばぁちゃんより大切な事なんて、ある訳ないよ」
アキもハルをしっかりと見つめて言う。
「あんたの帰りを待ってる仲間がいるだろう」
ハルの言葉を聞き、【ムーラン・ルージュ】の皆の顔が脳裏に浮かぶ。
「あたしはあんたをそんな無責任な娘に育てた覚えはないよ」
「おばぁちゃん・・・」
「やる事全部を成し遂げてから、渋温泉に帰っておいで・・・」
ハルは今までに誰にも見せた事のない柔和な笑顔を見せていた。
「アキさん、私も付いてますから。心配しないで下さい」
いつも自分を支えてくれていた弥生の言葉が頼もしく思えていた。

「ハァ、ハァッ! 女将さんはっ!」
ドアを勢いよく開けて飛び込んで来たのは、二人分の荷物を持った七瀬である。
「何ですか七瀬っ! ここは病院ですよっ!」
「でも、姉貴・・・っ! ア・・・、アキッ!? やっばりここに来てたんだ」
姉に窘められるも元気そうなハルとアキの姿を見て急に力が抜ける七瀬だったが、この場にそぐわない如月の姿を見て一瞥する。
「姉貴・・・、誰っ!? こいつっ!?」
「七瀬っ、わたしのお父さんよっ!」
「えっ!?」
アキの言葉に驚く七瀬。
アキはこれまでに見た事が無い程、嬉しそうな表情を浮かべている。
「お・・・、父さ・・・ん? 誰が?」
改めて病室を見回す七瀬、だがその人物と思われるのは・・・
「まっ、まさか・・・。このガラの悪いヤクザが・・・」
七瀬の指さした先で如月が視線を逸らせる。
ニコニコと頷くアキと如月を何度も見比べていた七瀬がツカツカと如月に近寄った。
「どうして、今までアキに会いに来てくれなかったんですかっ!?」
自分の娘と同じ歳の美少女に詰め寄られ狼狽する如月。
「そ・・・、それは・・・」
「いつもアキは自分のお父さんとお母さんの事は聞いちゃいけないんだって我慢してたんです」
アキと幼馴染の七瀬は、そんなアキの姿をずっと見て来た。
そして、5年前には不幸な事故で両親と姉を亡くしているのである。
生きているのに連絡もよこさなかったのは当然、許せないのだろう。
「七瀬っ! いい加減にしなさいっ!」
見かねた奈美が七瀬と如月の間に割って入る。
「でも・・・」
「人にはそれぞれ事情があるものよ。温水さんの家の話に私達は口出しするべきではないわっ!」
「それは・・・、そうだけど・・・」
いつもの奈美からは想像できない強い口調に思わず口ごもる七瀬。
「七瀬・・・。もう、いいの・・・。お父さんがいるって分かっただけで、わたし嬉しくて・・・」
「アキ・・・」
素直に喜びに溢れているアキの顔を見て、七瀬は何も言えなくなっていた。
「さて・・・」
黙って様子を見ていたハルが七瀬に声を掛ける。
「七瀬ちゃん、あんたもアキと一緒にやらなきゃいけない事があるんじゃないのかい」
ハっとする表情の七瀬。
「アキ、七瀬ちゃんと東京に戻りなさい。七瀬ちゃん、アキを頼むよ」
ハルの言葉を聞き、二人は顔を見合わせ頷きあう。
「あたしだってまだまだ。それに奈美さんも弥生さんも居るんだよ。お前達はまっすぐ、前に進みな!」
奈美と弥生も微笑みながら頷いている。
「それと、夏雄っ!」
ハルの視線が如月に向けられた。
「アキと七瀬ちゃんを東京まで届けなっ! いいねっ!」
「わかった・・・」
一言で数百人を動かす二月会の会長もハルにかかっては、形無しのようだ。
「それとお前には、もう一つだけ話がある・・・」
ハルの心中を察した奈美と弥生がアキと七瀬を病室から連れ出した。

病室で二人っきりになったハルと如月・・・
(なんて顔をしてやがる・・・)
先ほどの自分がアキの父親である事を明かした時を更に超える厳しい表情のハルが話し出した。
「夏雄、最後に一つだけ言っておくことがある。この話はあたしが墓場まで持っていくつもりだったんだが・・・、耄碌したもんだよ」
「何だ・・・?」
「あんたの父親の話だよ・・・。あんただって、あたしが実の親じゃない事くらい気付いてたんだろ・・・」
「俺の親父だと・・・。そんなもん・・・」
如月の表情が歪む。
(俺にとっては、あんたが母でいてくれたら、それでいい・・・)
「あんたの父親も生きてるよ」
「すまないが、興味のない話だ・・・」
「峰流馬、それが本名・・・。今はミネルヴァと名乗ってるそうだよ」
「なっ、何だとっ!? ミネルヴァだとっ!」
聞かされた真実に驚愕する如月。
「どうやら知ってるようだね・・・。ミネルヴァを・・・」
ハルは静かに話を続ける。
「俺を捨てた親父が、ミネルヴァなのかっ!?」
思わず激昂する如月。
「何、言ってるんだいっ! お前もあんたの親父と同じ事をアキにしたんだよっ!!」
ハルの言葉は如月の胸にグサリと突き刺さった。
(そうだな・・・。俺はアキに、娘に同じ事をしていたんだ・・・)
如月は慟哭する。
ハルの言葉で、如月夏雄が温水夏雄に戻った一瞬だった。

(ふうぅ・・・)
耳からイヤホンを外したゆかりが、大きなため息をついた。
(何てこと、あの如月が学園長の息子だったなんて・・・。しかも、その娘が温水アキ・・・、だから痣が三つ葉葵だったのね・・・。道理で・・・)
あの映像を見た時にアキの痣を見てミネルヴァが異様な喜びを見せた事を思い出すゆかりであった。
(学園長の孫娘か・・・、ここは収穫がありすぎたわ・・・)
ゆかりは音声を録音したタブレット端末の電源を切り、人知れず渋温泉を後にした。

一方、アキと七瀬は、如月の運転する車の後部座席に並んで座っている。
アキはハルから聞いた自分と如月に纏わる話を掻い摘んで話し、七瀬も渋々ながら納得するしかないようだ。
黙々と車の運転を続ける如月がふと、ルームミラーを見る。
(二人とも、さぞかし疲れただろうな・・・)
今日一日で色々な事がありすぎて疲れたのだろう、アキと七瀬は静かに寝息を立てていた。
ミラーに写るアキの寝顔を何度も何度も見る如月。
(アキ・・・、お前の眼差しは冬美にそっくりだぜ・・・。今まで忘れちまってたが。お前のお母さんと全く同じだ・・・)
平和で幸せだった日々、冬美との愛情に満ち溢れていた生活が頭の中に次々と浮かんでは消えて行く。
娘のアキを改めて愛おしく感じ始めた事を如月は認めていた。

車は静かに高速を走り続ける、東京へと向かって・・・
如月とアキ、18年間の垣根を越えて父と娘は一体何を感じ、そして何を思うのであろうか・・・

アキと七瀬が東京へと戻っている頃、アイドル甲子園の第一回戦が終わり不戦勝となっていた【ムーラン・ルージュ】の対戦相手が決まった。
「山口代表・・・」
優奈の顔が引きつる。
「ぱふぱふパッファー・・・」
汐音が皆を見回す。
「楽曲はっ!?」
葵が涼香を振り返る。
「ついさっき届きました」
涼香が楽譜を見てメロディーを口ずさむ。
「うん、良い感じじゃない。曲名は?」
萌の問いに涼香が答える。
「真紅の翼っ!」
「よし、行けるぞっ!」
葵が高らかに笑った。

同じ頃、DODOTVでは・・・
「ぱふぱふパッファー。なんか薹が立ってる感じだなぁ、こりゃ余裕で勝利かぁ」
三橋は余裕を見せている。
「でも、一回戦を勝ち残ったんですよぉ」
すずは少し不安そうだ。
「【ムーラン・ルージュ】はこれが初戦ですからねぇ」
岩田も不安げに言う。
「しかも、県の観光大使ってことは・・・」
三波の言葉がとどめになったのだろうか。
「わあぁぁぁぁっ!」
三橋はあの開運グッズの積まれたデスクに駆け寄り、一心不乱に拝みだした。
「・・・、三波さん」
「なに?」
「三橋さんの開運グッズ、なんだか増えてません?」
「・・・そう言えば」

「すいませーん、三橋さんに通販のお届けでーす」
いくつもの箱を台車に載せた配送員がドアを開けて入って来る。
三波達は顔を見合わせて、ため息をつくしかなかったようだ。

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